「人生は痛みの連続だと子ども時代にたたき込まれたのでしょう」
こう言うのは、グライムスという名前で活動する音楽家で、マスクの子ども3人の母親であるクレア・ブーシェイだ。そのとおりだとマスクも同意している。
「私は苦しみが原点なのです。だから、ちょっとやそっとでは痛いと感じなくなりました」
スペースXは打ち上げにこぎ着けたものの初回から3回連続でロケットが爆発してしまうわ、テスラは倒産しかけるわと大変な年になってしまった2008年には、朝、のたうち回って目を覚まし、昔、父親にあんなことを言われた、こんなことを言われたと、ふたりめの妻、タルラ・ライリーに語ることが多かったという。
「同じ言葉を彼自身が使うのも聞いたことがあります。大きく影響されているのです」
昔の記憶を語るとき、心はどこかに消え、鉄色の目の奥に引きこもってしまう感じだったともタルラ・ライリーは指摘している。
「あれはあくまで子ども時代の話だと考えていて、影響されているという意識はなかったようです。でも彼の中には子どものような側面が残っています。成長が止まってしまった側面と言いますか。心のどこかに子ども時代の彼がいるんです。父親の前に立つ子どもが」
イーロン・マスクは嵐が近づくと生を実感するタイプだ。嵐と騒動に惹かれる。願い望むこともある。仕事においてもそうだし、うまくいかないことの多い恋愛においてもそうだ。めんどうなことになると夜眠れなくなったり吐いてしまったりする。だが同時に元気にもなる。
「兄は波乱を呼ぶ男なんです」とキンバルも言う。「そういうタイプ、それが人生のテーマなのでしょう」
スペースXが31回もロケットを軌道まで打ち上げ、テスラの販売台数が100万台の大台目前に迫り、自身も世界一の金持ちになった年から変わって2022年になったとき、マスクは、騒動をつい引き起こしてしまう自身の性格をなんとかしたいと語った。
「危機対応モードをなんとかしないといけません。14年もずっと危機対応モードですからね。いや、生まれてこのかたほぼずっとと言ってもいいかもしれません」
これは悩みの吐露であって、新年の誓いではない。こう言うはしから、世界一の遊び場、ツイッターの株をひそかに買い集めていたのだから。そして4月には、珍しく休みを取ると、ときおりデートする女性、俳優のナターシャ・バセットを連れてハワイに行った。実はその少し前、取締役への就任をツイッターに打診されていたのだが、それでは不十分だとマスクはハワイ滞在中に心を決める。やはりすべてを掌握しないと気がすまない、だから敵対的買収をしかけよう、と。
続けてバンクーバーに飛ぶと、グライムスに会いに行く。グライムス宅では、戦いを通じて帝国を作るゲーム、『エルデンリング』に朝5時まで興じた。そして、その直後、買収の引き金を引く。「申し入れをした」と発表したのだ。
暗いところに入ると、昔、遊び場でいじめられた恐怖がよみがえってくる。そんなマスクに、遊び場を我が物とするチャンスが巡ってきたわけだ。
2年の長きにわたり、アイザックソンは影のようにマスクと行動を共にした。打ち合わせに同席し、工場を一緒に歩き回った。また、彼自身から何時間も話を聞いたし、その家族、友だち、仕事仲間、さらには敵対する人々からもずいぶんと話を聞いた。そして、驚くような勝利と混乱に満ちたストーリー、いままで語られたことのないストーリーを描き出すことに成功した。本書は、深遠なる疑問に正面から取り組むものだとも言える。すなわち、マスクと同じように悪魔に突き動かされなければ、イノベーションや進歩を実現することはできないのか、という問いである。
(訳 井口耕二)