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なぜ手記を書いたのか

 私は宝塚歌劇団の演出家として、「清く正しく美しく」のモットーに相応しい宝塚歌劇の様式美と男役のリアリズムを追求し、私なりに人生を懸けて舞台を作ってきた。『ロバート・キャパ 魂の記録』『For the people』『ピガール狂騒曲』など、出演者・スタッフ一丸で作った作品はどれも愛おしい我が子のような存在である。

原田氏 Ⓒ文藝春秋

 ところが、昨年12月28日発売の『週刊文春』で私は「演出助手Aに性加害に及んだ」演出家であると報道された。報道を受け、宝塚歌劇団はホームページ上で〈ハラスメント事案があったことは弊団として確認しており、関係者から慎重に聞き取りを行い〉と、あたかもハラスメント行為を既成事実かのように認め〈ハラスメントを行った団員は既に退職しており、現在は宝塚歌劇団及びグループ会社のいずれにも所属しておりません〉と、声明を発表した。

 しかし、内情は大きく異なり、歌劇団は私の退職までの真相を、今日まで隠蔽している。様々な意見と批判、憶測が飛び交う中、私はこれまで反論する機会を持ち合わせなかった。あの時、私の身に何が起きていたのかをここに記し、組織としてのコンプライアンスはおろか、人権問題さえをも孕む一連の問題を詳らかにする。

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宝塚独自の演出家育成法

 私がAに初めて会ったのは、1年前の春のことである。2022年4月、宝塚歌劇団の元花組トップスター・真矢ミキさんからLINEが入った。

〈私の主治医の友人のご子息が宝塚の演出家を目指したいとのことで、何かアドバイス頂けたらありがたく〉

 都内の大学に通うAは、有名IT企業の内定を得ていたものの、宝塚歌劇団の演出助手の募集を知り進路を変えたいと云う。数日後、Aと会うこととなった。

 宝塚歌劇団の演出助手は、「演出家の卵」としての側面が大きい。「生徒」と呼ばれる出演者同様、演出家をも自社育成していくシステムだ。かつてあった徒弟制度の名残であるが、生徒同様演出助手も、そうした叩き上げで、一から大劇場の舞台作りのイロハを学び、宝塚ならではの演出助手、ひいては宝塚の座付作家・演出家として育てられる。運良く私はそうした形で演出家に仕立ててもらった。

 東銀座、三原橋の交差点を少し入ったところに約束のレストランはあった。4月8日、少し早めにその店に着くと、既にAは到着していた。

 リクルートスーツを着たAは、小柄な23歳の青年だった。福岡県の医者の家に生まれた一人息子で、陸上推薦で都内私立大学の付属高校に進学し、母と上京。大学では文学部で美学美術史学を専攻した。宝塚歌劇を観るようになったのは、子どもの頃、母方の祖母に連れられて観たのがきっかけだったと云う。

 私の目から見れば差し当たって特色のない青年だったが、ただ一つ、宝塚に対する愛情だけは感じられた。宝塚歌劇という特殊な世界で働くのに必要なものは様々ある。知識、コミュニケーション能力、忍耐力、現実と折り合いをつける力、そして愛情と情熱と夢を描く力である。かく言う私も、そんな情熱だけを持ってこの世界に飛び込んだのだ。こうして知り合ったのも何かの縁であるからには、「宝塚が好き」というかつての自分に似た彼を、自分なりにサポート出来ればと思った。面会後、Aから選考の課題脚本をみてほしいと頼まれ、気になった箇所を指摘するなど出来る範囲で協力した。

 宝塚の夏は暑い。春には桜のトンネルとなる花のみちも緑一色となり、朝から蝉時雨が降り注いでいた。

 7月30日の朝、Aから合格したと、LINEで連絡が入った。

〈明日、10分だけでも良いのでお時間頂けませんでしょうか?〉

内定の報告をするA氏からのLINE (著者提供)

 電話があるのかと思ったら、東京から宝塚の我が家へわざわざ御礼の挨拶に来たいと云う。自宅に入れるのは気が引け、宝塚駅近くで食事をした。

 以後、内定したAからは連日、LINEが送られてくるようになった。『週刊文春』では〈憧れの宝塚に入れる喜びから一転、Aさんの恐怖と戦う日々が始まった〉と報じられたが、私の認識とは大きく異なる。

 Aは早速、宝塚市内で住む場所を探し始めた。幾つかの物件情報や内覧写真を送り、感想を求めてきた。

〈毎日、池田文庫(宝塚関連資料を収蔵する図書館)に行って◯◯(私の住む地名)で待ってますね笑〉

〈◯◯◯(私の住所・番地)付近がいいです!笑〉

 記事には、Aの知人の証言として〈Aさんが宝塚で家を探す際にも、自分の家の近くに家を借りさせようとしていました〉などとあるが、実際は逆だ。当時は宝塚に合格した嬉しさがそうさせているのだろうと、私は適当に受け流すようにしていた。