6月3日~5日の横浜DeNAベイスターズvs対埼玉西武ライオンズ3連戦は、ベイスターズが日本一に輝いた1998年シーズンのスローガン〈GET THE FLAG!〉を冠したスペシャルイベントが開催された。当時のユニフォームで高橋光成、平良海馬相手に勝って2勝1敗。4点差もひっくり返す令和のマシンガン打線と、まさにリメンバー1998な3日間だったわけだが、その盛り上がりに一役買ったのが球団史上最強の助っ人、ロバート・ローズだった。
ローズは事前からツイッターで積極的に発信し、試合前にはトークショー、日本シリーズの再現シーンではセカンドの守備につき、最終戦では野村弘樹と一打席対決を行った。そして、フォーエバー1998なファンの胸を熱くさせたのが3日の試合後、本来試合前のイベントに出演予定だった権藤博が新幹線遅延の影響でビクトリーセレブレーション中にグラウンドに到着し、『勝利の輝き』が流れる中でローズと抱擁を交わした瞬間だった。権藤は「ボビーが私を優勝監督にしてくれたようなもの。ベストフレンドです」とローズを称え、「優勝した時にボビーは“このチームは誰が監督をやっても優勝できる。ただし、監督が何もしなければ”と言ってくれた。それが最高の誉め言葉でしたね」と当時のエピソードを披露。ローズはそれに黙って頷くのだった。
優勝翌年のシーズン中、突如引退を表明したローズ。
優勝した年に打率.325、19本塁打、96打点を挙げ、牧秀悟にも通じる「強打のセカンド」の代表格だったローズ。翌99年は自身3度目のサイクルヒットを達成。前半戦終了時点で100打点をマークするなど前年以上に打ちまくるものの、そんな最中の6月8日、突如引退を表明。ベイファンは全員狐につままれてしまう。
「野球をやめることにした。百パーセント間違いない」
「打率と打点がトップなのは知っているが、あんまりうれしくないんだ。ハングリーさが無くなって、毎日を楽しめなくなった」
「リタイアするということは何もしないということだ。あとは家族と楽しく過ごしたいだけ」
驚いたのはチームメイトも一緒。鈴木尚典は「聞いてないよ」と絶句し、「後ろに(ローズが)いるから安心して打てるし、自分も返してもらえる」とその存在の大きさを語ったが、筆者はこの“ハングリーさがなくなった”というローズの発言と、連覇を狙いながら下位に沈んでいた99年前半のチーム状況が重なり、妙な胸騒ぎが起こったのを覚えている。
ローズの引退宣言は、家族を大事にする彼が遠征続きの生活に疑問を抱いたこと、そして契約に関する不満も大きかった。当時のベイスターズは外国人選手とは基本一年契約で、ローズは以前にも自らを日本に誘った名スカウト、牛込惟浩に「オレはベストをつくしているのに、なぜ一年契約なのか」と不満を漏らしたという。また、同年の週刊ベースボールに掲載されたインタビューではこう発言している。
「ここではメジャーにいただけで、それなりの成績を残すことが当たり前だと思われている」
「もしこれから僕の打率が2割に落ちるとするだろう。そのときは嫌でも球団からやめてくれと言われる。そんなみじめな思いはしたくない。やめるときは、いい時期に自分の意思でやめたいんだ」
ベイスターズ元年の93年に来日したローズ。当初は一緒に入ったグレン・ブラッグスの怪力が注目され、ローズは守備力を期待されての入団だった。しかし初年度でいきなり打点王を獲得。以降もコンスタントに打ち続け、99年には外国人選手8人目となる通算1000安打を記録。球団幹部も「今後あれだけの選手はなかなか出てこないだろう」と認めるプレーヤーになった。だったら複数年契約してよ……と言いたくなるが、権藤が後年「あのときはお金が続かなかったんですよ」と語った通り、当時の球団には本当に必要な選手に対して、誠意を持って交渉するための資金力もマインドもなかった。だからローズのみならず、多くの優勝メンバーがその後チームを去ることになるのである。
引退宣言後、ローズを引き留めるべく徐々に普及しつつあったインターネット上では署名運動が起こり、スタンドには「R」「O」「S」「E」と書かれた色とりどりのボードが並ぶ日もあった。そんなファンの声と「妻から“もう一年やって”と説得された」こと、権藤と1対1の話し合いの場を持ったことでローズの心は翻意へと傾いていく。そして右打者最高打率(当時)となる.369で首位打者、外国人選手の最多記録である153打点で打点王、さらには192安打で最多安打のタイトルを獲得し、37本塁打、OPS1.093というキャリアハイの成績を収めて約4億7千万円で契約を交わしたローズは、2000年シーズンも横浜でプレーすることになった。