ローズと権藤監督は一緒にチームを去った。
2000年も変わらずローズは打ち続け、打率.332、21本塁打、97打点。2年連続で最多安打(168安打)も獲得した。ちなみに首位打者はキラ星の如く現れた金城龍彦。ローズは打率2位で、97~98年の鈴木尚に続いて4年連続で首位打者がベイスターズの選手という快挙。特に前年99年は98年以上に打ちまくってNPB史上最高のチーム打率.294、00年シーズンも他を圧倒するチーム打率.277をマークするものの、権藤曰く大魔神・佐々木主浩が抜けて「普通のチーム」になったチームは、いくらヒットを重ねても勝てないジレンマに陥ってしまった。
それでも、あくまで選手の自主性を尊重するのが権藤流。就任以来のバントをしないノーサイン野球を貫いた結果チーム内はゴタゴタが続き、7月以降は攻撃の采配を野手コーチ陣が担う事態となってしまう。そして9月30日、歴代監督の中で唯一すべてAクラス入りした優勝監督、権藤博の退団が決定したのである。
10月に入り、球団とローズは2001年シーズンに向けて年俸の交渉を重ねるものの、両者の間には5,500万円の開きがあって決裂。しかし権藤野球の一番の理解者であり、家族との時間を大切にしたいローズが横浜に残る理由はもはや存在しなかったのだろう。
「権藤さんも辞めるし、ベイスターズは生まれ変わる時なんだ」
「球団がボクの要求にノーと言ってくれて本当はほっとしたよ。要求をのんでくれたとしても、現役を続けるかどうか半信半疑だったからね」
そう言って10月9日に引退を発表したローズはその夜、馴染みのバーで権藤や谷繁元信、鈴木尚らチームメイトと別れを惜しみ、1試合を残して帰国の途につく。迎えた翌10日の横浜での最終戦、試合後のセレモニーではスタンドからローズコールが鳴り響く中、電光掲示板にその姿が映し出された。そしてこんなメッセージをファンに贈ったのだ。
「チームメイトにお礼を言いたい。日本一が最高の思い出。ナンバーワンのポーズをした権藤さんを胴上げできたのが最高の瞬間だった。引退はつらい決断だったが、ファンには理解してもらえると信じている」
ちなみに、この日ローズに代わり四番に入ったのは同じく退団が決定していた98年のキャプテン駒田徳広。2000年10月10日は、いろんな意味でベイスターズの栄光が終わりを迎えた日だったのである。
あれから23年。最後は少し寂しい形で横浜を去った56歳のローズと84歳の権藤が、あのユニフォームを着てハマスタのグラウンドでニコニコと笑っている。オールドファンはそれだけでセンチメンタルな、たまらない気持ちになってしまう。
ローズさん、久しぶりの横浜スタジアムは楽しかったですか?
(参考資料)
週刊ベースボール1999年8月23日号
週刊ベースボール2023年5月22日号
1999~2000年の神奈川新聞
『サムライ野球と助っ人たち 旅日記編』牛込惟浩/著
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