あえて110メートル地点から
羽生さんは、そのAIの呪縛から「吹っ切れた」。2人が戦った王将戦を見ていて、私はこのことを強く感じました。
王将戦が始まって、私がまず驚いたのは、第一局で羽生さんがとった作戦でした。なんと、わざわざ自分から不利になるような戦法を選んだのです。
将棋の序盤戦には、非常に幅広い戦い方があり、ほとんどの棋士は自分が得意な戦法を持っています。藤井さんの場合は「角換わり」戦法。攻撃力の高い駒である「角」を早々に手持ちにして、攻めへの活用を図ることができるので、序盤から激しい斬り合いになりやすい特徴があります。
その藤井さんに対して、羽生さんは「一手損角換わり」という戦法を選びました。これは、その名の通り、駒を動かす回数を一手分、相手より損する「角換わり」です。
もちろん、「一手損角換わり」には、手損を代償に、別の部分でメリットを求めようとする狙いがあります。ただ、わずかな差が勝敗を分けるプロの世界では、たった一手の損でも、大きなマイナスに繋がってしまう。実際、AIによる評価では、この戦法にした段階で少し不利になるとされているのです。
100メートル走にたとえるなら、自分だけ110メートルの地点からスタートするようなもの。金メダリスト級のランナーである藤井さん相手にそんなハンデを負っては、並の棋士なら勝ち目はないでしょう。それにもかかわらず、羽生さんは第三局でも、AIの評価が低い戦法を選んでいました。
なぜ羽生さんは、そういった作戦を選んだのでしょうか。
藤井さんが得意とする「角換わり」は、棋士の間で最も緻密に研究されている戦法のひとつ。当然、羽生さんも最新のAIで試行錯誤を繰り返したはずです。
しかし、いくら羽生さんでも、この分野で最先端の知識を持つ藤井さんを真正面から打ち負かすのは、至難の業と言わざるを得ません。何しろ、深い研究で知られる渡辺明名人でさえ、先日の棋王戦では藤井さんに1勝3敗。「角換わり」の将棋で圧倒されているのです。
一方で「一手損角換わり」は「角換わり」と比べると、研究はそこまで進んでいません。未開拓の土地がまだまだ残っている、いわば「自由度」の高い戦法と言えます。
私は、羽生さんの意図はここにあったのでは、と推測しています。AIによる「正解」ばかり気にしていては、ミスによる失点を恐れて自由な発想ができません。
その点、「一手損」であれば、藤井さんも事前の研究が行き届いていない可能性が高い。たとえ10メートル後ろの地点からスタートしたとしても、AIの評価に囚われず、藤井さんの意表を突く手を指せば、前を走る藤井さんを追い抜くことができるだろう。羽生さんはこう考えて、あえて未開拓の戦法を選んだのではないでしょうか。
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「藤井と羽生はどっちが強い?」全文は、月刊「文藝春秋」2023年6月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
藤井と羽生はどっちが強い?