銀行へ行き、クレジットカードで買物をして、友人とディスコへ
1983年6月、学習院大学を卒業した浩宮は、オックスフォード大学の留学に出発した。一般学生と寮生活をし、中世のテムズ川の水上交通史を学ぶためで、これほど長期間、皇族が海外に出るのは異例だった。
「テムズとともに」の冒頭は、こういう文章で始まっている。
「私がオックスフォードに滞在したのは、1983年の6月末から85年の10月初旬にいたる2年4ヶ月間であった。その間、とても一口では表現できない数々の経験を積むことができた。私がオックスフォードを離れてからすでに7年を経過した今も、それらは常に青春の貴重な思い出として、時間、空間を超えて鮮やかによみがえってくる。その多くが今日の私の生き方にどれだけプラスになっているかは、いうまでもない」
そして、初めて住んだ外国の生活を、興奮気味に綴っていた。
「私はオックスフォードで初めて銀行に行く経験をした。それは、英国以外の国へ行く機会も多かったため、現地で使用した紙幣を英国のポンドに両替するためである。最初で最後の経験かも知れない。また、カードの通用する店ではクレジット・カードでの買物をしていたが、これも今後はまず縁のないことであろう」
また、ある週末の夜、友人とディスコに出かけ、店に入ろうとすると、店員が拒否してきたという。
「理由を聞くと、ティーシャツやジーンズではその晩は入れない由である。ちなみに私がジーンズ、友達がティーシャツ姿であった。さらにその人は私たちの後方にいた警護官を指差し、『あなたは結構です』と言った。彼はネクタイこそしめていなかったが、ブレザー姿であったから許可されたのであろう。オックスフォード滞在中は、可能な限り他の学生と同じでありたいというのが私の本心であり、自分が誰かを名乗るなどとんでもない話である。素直にそのままあきらめて帰った」
観光ガイド顔負けの詳細かつ正確な描写にじむ、浩宮の思い
今から3年前、私は、「エンペラー・ファイル」(文藝春秋)という本を出版した。機密解除された英米政府の文書などで、天皇家三代を描き、取材でオックスフォードにも足を運んだ。その時、「テムズとともに」を手に、浩宮行きつけのパブなどを回ったが、素直に驚きを隠せなかった。
黒のガウンを着て、入学式が行われるシェルドニアン・シアターまで歩いた石畳の通り、足しげく通ったブラックウェルズ書店、そして、コーヒー豆を買いに出かけたコーンマーケットの市場、ここまでかという位、詳細かつ正確に書かれていた。観光用ガイドなど比較にならず、まるで、路地の1つ1つを愛しむかのようだった。
おそらく、自分の人生で、このような時間は、2度と来ないのを自覚したのだろう。1人で銀行に行って両替をし、クレジット・カードで食事したり、買物をする。私たちに、ごく日常のことが、この上なく大切な思い出になっていた。市内を歩きながら、言いようのない切なさと同情、親近感に襲われたのを覚えている。