20世紀を代表する写真家、ウィリアム・クラインをテーマの中心に据えた展覧会が始まった。東京六本木、21_21 DESIGN SIGHTでの、「写真都市展 –ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち–」。
都市の躍動感を初めて写真で捉えた
ときは1956年。『ニューヨーク』と題された一冊の写真集が刊行された。ウィリアム・クラインなる若者の手によるこの書物が、写真表現の世界を刷新した。『ニューヨーク』に掲載されている写真は、従来の基準からすればメチャクチャで、単なる失敗写真の集まりにしか見えなかったというのに。
露出やピントが合っていないのか、画面の質感が荒れまくっている。ちょっとでも動く被写体は、どれもブレたりボケたりして写っていた。街のなかでとっさの反応によってシャッターを押すらしく、構図にもさして頓着していないように思える。
でもしばらく眺めていると、観る側の心象に変化が訪れる。1枚ずつは何を撮っているのかよくわからぬ粗い写真群を、目に飛び込んでくるまま受け止めていると、いつしかリアルな街の姿が眼前に立ち上がってきて、大いに驚かされるのだ。
いったん作品世界に入り込めば、あとはどんどん没入してしまい、1950年代ニューヨークの雑踏へ分け入っていける。荒々しい失敗写真の集積かと思われたウィリアム・クラインの写真は、じつは都市の躍動感を見事に捉えていたのだった。
ウィリアム・クラインの「新しいリアルな写真」は、あっという間に世界中へと伝わり、広く共感を呼んだ。後進の写真家はこの新たな表現手法をこぞって取り入れた。日本でも「アレ・ブレ・ボケ」をトレードマークにした森山大道や、市井の人たちの猥雑な日常を撮った荒木経惟をはじめ現在に至るまで、クラインの流儀を取り入れる者は跡を絶たない。
「カメラを持って都市に出ると、あらゆるものが私を興奮させる」
かくも革新的だったウィリアム・クラインの作品とは、実際どんなものなのか。影響力はどのように波及しているのか。そんな疑問に答えてくれるのが今展だ。
会場に入るとまず、御大クラインの写真をちりばめてつくられた空間に出る。名作『ニューヨーク』や、そののち来日して撮影した『東京』など代表的な写真集も並ぶ。
歩を進めると、暗がりに大小いくつものモニターが設置されており、そこにクラインの写真が次々と映し出されていく。過激で猥雑、そしてこの上なく力強い。
「カメラを持って都市に出ると、あらゆるものが私を興奮させる」
かつてクラインは、撮影についてそう語った。写真を観る側にもその気持ちはダイレクトに伝わる。彼の写真と対面していると、そこに写っているすべてのものが興奮を誘ってくる。
圧倒されつつ進めば、次なる広い空間には、日本とアジアの若手写真家たちによる作品が展示されている。石川直樹、西野壮平、多和田有希、台湾の沈昭良らが、いずれも「都市」を切り口にした写真を出品。ウィリアム・クラインの作品に拮抗せんとしている。
対比してみると、同じく都市を捉えるといっても、かなり様相が異なっていることにはすぐ気づく。西洋人が撮った20世紀の都市と、東洋人の表現する21世紀の都市は、やはり明らかに違う。時代や地域性がかくもくっきり浮かび上がってくるものかと興味深い。
いっぽうで、写真家たちが都市に強い関心を抱くことは、まったく変わらぬようだ。たくさんの人が集い、とてつもないエネルギーが生まれる場所としての都市は、いつの時代も魅惑的な被写体であり続けるのだ。