勘三郎が絶賛「情が濃い」
改めて「この人いいな」と思ったのは、2008年新春浅草歌舞伎。やはり「吃又」(六月歌舞伎と同じ演目)で、このときは、二代目中村勘太郎さん(現・六代目勘九郎)演じる又平に健気に尽くす女房おとくを好演。観ていて思わず涙が出ました。十八代目中村勘三郎さんも猿之助さんのことを「情が濃いなあ」と褒めていましたね。
それまでは口跡はじめ先代を彷彿させる芝居だったのですが、このときのおとくはぐっと抑えた演技が印象的でした。そう言って褒めると、
「いや、今までも抑える演技はできたんだけど、でもそうするとぼくらしくないって言われるから。澤瀉屋はやりすぎの芸なんです。役者それぞれの色ってありますからね。でもぼくは勘太郎君が大好きだから、あの人の女房役なら抑えて演じられるってとこが多分にあったんです」
「やりすぎの芸」とは、伯父である猿翁さん仕込みの熱演のこと。聴衆に「ここが面白いんですよ」と分からせたいがゆえに台詞に熱がこもる。熱演で人を説き伏せる凄みがありました。
歴代猿之助のなかで、立役も女方もどちらも秀でているのは、当代猿之助さんが初めてです。芸達者らしいエピソードがあります。
2007年3月にパリ・オペラ座で初めて歌舞伎がかかるという歴史的な公演のときのこと。十二代目市川團十郎と海老蔵(現・團十郎)の『勧進帳』では義経、『紅葉狩』では山神をリズミカルに踊ってみせました。
それより猿之助さんが現地の人の注目を集めたのがフランス語による口上でした。立て板に水で、『オペラ座の怪人』の話題から、この場にシャンデリアが落ちてこないかと心配してみせたりして観客は大ウケ。普通ならば市川宗家の成田屋親子に遠慮するところを、そうしないのがいかにも亀ちゃんらしかった。後にこの口上のことを言ったら、「ぼくは小学校から(歌舞伎界の御曹司の卒業生が多い)暁星で、12年間フランス語をやっていましたから」と得意げでしたね。
猿之助さん(当時亀治郎)は一時、親子そろって伯父の許を去ったことがありました。段四郎さんと猿之助さんが一門を離れたのは、もっと古典の勉強をしたい、多くの人に出会って役柄を広げたい、という思いからだったそうです。また、本音では「スーパー歌舞伎」漬けの日々が続き、同じ演目を長期間続けるのに飽きていたとも聞きました。
しかし、長年伯父の許で芝居を一から創造するのを体験したことが、その後の彼の芝居人生に大きく役立ったのは間違いありません。