今年、芸能生活60周年を迎えた芸人・西川きよし。ここでは初の自伝『小さなことからコツコツと』(文藝春秋)を一部抜粋して紹介する。

 17歳で喜劇役者の石井均に弟子入りし、翌年に吉本新喜劇へ。のちに妻となる「ヘレン姉さん」と急接近したきっかけとは?

©文藝春秋

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 私が吉本に入る5カ月前に、一人の金髪碧眼の女性が入団しました。5カ月とはいえ先輩は先輩なので、私はその女性のことを「ヘレン姉さん」と呼び、彼女は私を「キー坊」と呼びます。

 読者諸賢お察しの通り、いまの女房・西川ヘレンのことで、当時彼女は「ヘレン杉本」と名乗っていたのです。

 舞台での場面は違えど、彼女のセリフは毎回同じです。

「ワタシガイジンヤカラ、ニホンゴ、ワッカリマセーン」

 青い目の女の子(年齢は私より3カ月下)が、コテコテの関西弁で放つギャグに、割れんばかりの大爆笑が起きます。

想像を絶するほどの苦労人だった

 ヘレンはアイルランド系アメリカ人の父と京都生まれの母の間に生まれた一人娘。京都にある佛教大学の系列校・華頂女子高校を中退してすぐに吉本に入社し、「スチャラカ社員」の4代目女性事務員役として人気急上昇中の若手女優でした。

 彼女は想像を絶するほどの苦労人です。小さなころから、歌、踊り、タップダンス、英語、ピアノを習う才女ですが、周囲からは偏見の目で見られることが少なくなかったのです。

 周囲には戦争で家族を失った人たちもいましたから、外見だけで「敵国の少女」と見られてしまう。傷痍軍人の募金にお金を入れようとしたら手を叩かれて、「お前の金などいらん」と怒鳴りつけられたこともあったといいます。

 子どものころからそんな苦労を経験しているだけに、自分の努力で独り立ちしたいという向上心が誰よりも強かったのです。

 もちろん、そんな彼女の苦労話を当時の私は知る由もありません。後になってお付き合いするようになってから少しずつ知ることになるのですが、たった5カ月の入社の差なのに、「通行人A」から「クマの着ぐるみ」に昇格して喜んでいる私の目に、彼女が眩しいばかりの大スターに映っていたのは確かです。