北別府の“亭主関白”ぶり
カープの元投手の川端順氏は、故・津田恒実や川口和久ら他の投手陣と自宅に招かれた際の“亭主関白”ぶりを覚えている。
「奥さんは料理上手。北別府さんは、『川端はアレ好きやから持って来たれ!』『津田はこれだ』と僕らに気を使うばかり。でも、飲みに行くと『女房は優しい』とノロ気話をしていた。津田と『活躍したらあんな綺麗な奥さんがもらえるんだ』と話をしてました」
北別府は、1994年に引退。その後は、コーチや野球解説者として活動した。
一方で広美さんも家の外で活躍。国連支援交流協会の広島支部長を務め、「幼稚園の経営にも携わっていた」(夫妻の友人)。
しかし、60歳で北別府の病が発覚すると生活は一変した。
亡くなる10日ほど前に広美さんから返って来たメッセージ
2人と親交が深かった喫茶店「ルフラン」のママも、こう振り返る。
「闘病が始まって少し経った頃、広美さんから連絡がありました。『病床の主人がそちらの梅干しでないとご飯が食べられないと言っているんです』と。その後も、たびたび梅干しやお米などを送りました」
今春になると広美さんは、ブログで次第に病の深刻さを綴るようになる。
〈退院が延期に〉〈眠っている事が多く〉……。
夫妻の友人で広告ディレクターの原田稔氏が明かす。
「いつも『ペーさんは元気』と言っていた広美さんでしたが、亡くなる10日ほど前に電話をしても出なかった。『今は、泣いてしまうのでごめんなさい』とメッセージだけが返って来た」
原田氏によれば、広美さんが弱音を吐いたのは、この一度きりだったという。
22年、北別府はブログに〈1番の望み〉としてこう書いている。
〈元気になったら家内を幸せにしてあげたいなと思う〉
葬儀会場には、「家族団らんのひと時は、夫からの最後の贈り物だった気がします」と、広美さんの言葉が飾られていた。