「決壊する!」。上田さんは慌てて車に飛び乗り、1kmほど離れた自宅へ急いだ。飼っていた猫をカゴに入れ、通帳類をリュックサックに詰めて、再び車に乗って避難した。
住民に避難を呼び掛ける余裕はなかった。そもそも箭田のまち協には拡声器付きの車が配備されているわけではない。
とりあえず、山の方へ車を走らせる。最初は山の中ほどにある真備総合公園の体育館を目指したが、避難の車で渋滞していて、たどり着けなかった。このため、やはり山の中ほどにある清掃工場の吉備路クリーンセンターで夜を明かした。
箭田地区のまち協が防災に力を入れていた理由
翌朝、高台から見た真備町は湖のようになっていて、家々の2階の屋根だけが島のように浮かんでいた。浸水深は5m以上。上田さん宅も2階の中ほどまで浸かり、水が引くまでに3日間も掛かった。
上田さんは、真備町の典型的な住民だ。大分県で生まれ、旧川崎製鉄(現JFEスチール)に入社して、倉敷市の水島製鉄所に配属された。30歳代半ばで結婚し、真備町で造成された約35軒の住宅団地の一角に2階建てを建てた。真備町を終の住処として選んだのは、妻の出身地でもあったからだ。
真備町はもともと、高梁川と小田川の氾濫域のような低地が水田として使われていただけのような地区だった。古くからの集落は水害が及ばない山裾にあり、金田一耕助シリーズで有名な推理作家・横溝正史が戦時中に疎開した旧家もそうした場所にある。もちろん、西日本豪雨では浸かっていない。
だが、高梁川が注ぐ瀬戸内海の埋立地に水島臨海工業地帯ができた。高度成長期に「金の卵」として就職した若者が結婚の時期を迎えると、地価の安い真備の水田は次々と住宅団地に変わっていった。上田さんの団地もそのうちの一つである。
真備町の人口は2万人を超え、岡山県内の町としては有数の大きさになる。
しかし、氾濫原のような土地だった歴史は変えられなかった。箭田地区のまち協が、防災に力を入れていたのは「いつか水害に見舞われる」という危機感があったからだ。
それが現実のものとなったのが西日本豪雨だった。
避難を呼び掛けても、逃げなかった人もいた。逃げ遅れた人が多く、2階まですっぽり浸かった家の屋根の上で助けを待った人もいた。2階の天井近くまで浸水した家屋の中で、机などの上に立ち、首だけ水面から出して水が引くのを待った人もいる。
浸水した家を平屋建てで再建
新しいハザードマップでは浸水想定が「10m以上」になった。西日本豪雨の浸水深の2倍の深さで、3階建てでも屋根まで水没する。