死者・行方不明者が14府県で232人にのぼり、「平成」時代では最悪の水害となった2018年7月の「西日本豪雨」。人的な被害が最も多かったのは、51人が犠牲になった岡山県倉敷市の真備町だった。

 あれから5年が経つ。

 真備町では堤防の強化や河道の付け替えなど、「同じ規模の降雨」があっても災害が起きないようにするための工事が、今年度でほぼ終わる見込みだ。行政的な「復旧・復興」はこれでひと区切りとなる。

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 地元では「工事が終わらないうちは安心して住めない」と話す人が多かっただけに、大きな節目になるだろう。

 ところが今、住民の間で「衝撃」が静かに広がっている。倉敷市役所が全戸配布した新しいハザードマップが驚くような内容だったからだ。真備町の市街地のほとんどが10m以上もの深さに水没する想定になっていた。

倉敷市のL2想定の洪水ハザードマップは市内を5地区に分けて出した

 西日本豪雨の最大浸水深は5m強。市街地がすっぽり沈んで湖のようになり、2階まで浸かった家屋の屋根で多くの人が救助を待った。新しい浸水想定では、さらにその倍以上の深さにまで水没しかねないというのだ。「逃げ遅れたら、確実に死ぬ」。人々は新想定をどう捉え、どう備えようとしているのか。

水害の原因は2つの河川

「そこまで浸かるわけがない」。守屋美雪さん(74)は多くの人に笑われたのを思い出す。被災前のことだ。

 真備町には7つの地区があり、それぞれに住民組織の「まちづくり推進協議会(まち協)」が結成されている。旧「真備町」が2005年に倉敷市へ吸収合併される前からの住民自治の仕組みだ。

 守屋さんは、このうち真備支所(旧真備町役場)がある箭田(やた)地区のまち協で事務局長を務めている。

 箭田地区のまち協は「防災」に力を入れてきた。水害にさらされてきた歴史があるからだった。

 原因は二つの河川だ。

 一つは高梁(たかはし)川。中国山地に源流を発して、倉敷市で瀬戸内海に注ぐ。岡山三大河川の一角を占めるが、暴れ川としても知られてきた。真備町の町域は高梁川の西側に接して広がっている。

高梁川。朝日が映る

 もう一つは、高梁川の支流・小田川だ。真備町の低地を東西に貫流し、貫いた先で高梁川と合流する。かつては真備町の低地で流れを変えながら蛇行していたといい、流路が固定されたのは江戸時代に堤防ができてからだった。

「そんなところにまで水が来るわけがない」オレンジラインを嘲笑する住民

 高梁川や小田川が起こした災害のうち、明治時代以降で最悪とされるのは1893(明治26)年の洪水だ。流域で310人が亡くなったとされる。