きたる7月19日、東京築地の料亭・新喜楽にて第169回直木三十五賞の選考会が開かれる。作家・永井紗耶子氏に、候補作『木挽町のあだ討ち』(新潮社)について話を聞いた。(全5作の5作目/最初から読む)
◆◆◆
大姫入内を描いた『女人入眼』に続く、永井さんの新作は江戸の芝居町で起きた仇討を巡るミステリー。本作は第36回山本周五郎賞を受賞した。
「歌舞伎を見ていると仇討って本当に多いんですが、よく考えると過酷なシステムですよね。死んだ親や主君のために、生き残った者がすべてを捨てて敵を追い、殺すまで帰れない。一方で、町人にとっては、芝居で喝采し落語で笑うようなエンターテインメントでもある。この仇討という奇妙なものを、どう描けば現代の私たちにも腑に落ちる物語になるだろう、というのが今作の出発点です」
父の仇討を果たした美少年
芝居小屋のある木挽町。降る雪に父の仇を呼ばわる声が響き、美少年・菊之助が博徒・作兵衛に一太刀、返り血に染まった白装束は宵闇に走り去った――。
その2年後、有名な仇討の話を聞きたいと、菊之助に関わった芝居者たちを訪ね回る者が現れる。江戸にも芝居にも不慣れな若い侍相手に説かれる言葉を通して、読者はすんなりと江戸歌舞伎の世界に導かれてゆく。
「ライターだった頃に、市川染五郎(現・松本幸四郎)さんにビギナー向けの解説をしてもらう連載を担当したことがあるんです。金毘羅の公演にも行って、当時の狭さや薄暗さを残す小屋の様子や奈落など裏方も見せてもらって。今の歌舞伎より身近な“生きもの”という雰囲気を体感して、たとえば作中に登場させた戯作者の並木五瓶などは、今でいう野田秀樹さんや中島かずきさんみたいな存在だったんだろうなぁと想像がふくらみました」
日本人がひきずるメンタリティ
旗本の身分を捨て五瓶に弟子入りした男、吉原生まれの木戸芸者、武家を出奔した立師、焼き場の爺に育ててもらった女形……。交代する語り手たちの身の上話から、一見華やかでも下層と蔑まれる芝居町を取り巻く、複雑な身分社会が浮かび上がってくる。
「芝居小屋の中だけの話にはしたくなかったんです。仇討の根底にあるのは忠・孝ですが、これと年長者に従う悌を含む三綱は、封建社会を保つための教え。人間の根幹とされる五徳(仁・義・礼・智・信)よりプライオリティは低いけど、支配層が被支配階級にこそ学んでほしいものなんでしょうね。
忠義・孝行を持ち出されると思考停止に陥って『仇討しなきゃ!』ってなるのは、日本人がずっとひきずっているメンタリティな気がします。でも本当は、自分の上司や親がそれに値する人物なのかを疑ってもいいはず。仇討と、今に通じる感覚との境界を探っていったら、こういう形になりました」
終章で明かされる真相まで、歌舞伎さながらの外連味を楽しめる一冊だ。
永井紗耶子(ながいさやこ)
1977年神奈川県生まれ。2020年『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』で細谷正充賞、本屋が選ぶ時代小説大賞、新田次郎文学賞、本作で山本周五郎賞受賞。
(初出:「オール読物」2023年7月号)