きたる7月19日、東京築地の料亭・新喜楽にて第169回直木三十五賞の選考会が開かれる。作家・垣根涼介氏に、候補作『極楽征夷大将軍』(文藝春秋)について話を聞いた。(全5作の2作目/続きを読む)

垣根涼介さん

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『極楽征夷大将軍』と聞いて、多くの読者は誰を思い浮かべるだろうか。

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 垣根さんが候補作で描いたのは、室町幕府の開祖・足利尊氏。

「日本史に名を刻む武将の中で、おそらく一番だらしのない人間だと思う」

 と、尊氏について語る時、垣根さんはどこか楽しげだ。

「調べれば調べるほどろくでもない男で、どうしてこんな人間に幕府が起こせたのか、不思議に思っていました。僕自身にもかなりその傾向がありますから(笑)、尊氏のキャラに惹かれる部分もありましたね。

 たいした人物でもない尊氏が人に慕われ、戦でも連戦連勝できたのはなぜか。自分なりの尊氏を書いていくことで、その謎に迫ってみたかったんです」

向上心がゼロ、野望もゼロ

 多くの楽しいエピソードが綴られていくが、まず冒頭、足利宗家を継ぐのを徹底的に嫌がるひと幕が印象的だ。

 尊氏曰く「立身より心が軽いほうがいい/他になりたい者がなればよい」。

「幕府を開くとか将軍になるという以前の問題ですよね。そもそも人としての向上心がゼロ。野望もゼロ。ひたすら平穏に楽ちんに生きられればいい。周囲に説得されて家督を継いだ後で、たとえば鎌倉幕府から後醍醐天皇の反乱を鎮圧する軍を率いるように言われても、『具合が悪いのだ』『もはや危篤である』などと駄々をこねてなかなか出兵しない。こんな武門のトップは他にいませんよ(苦笑)」

『極楽征夷大将軍』(垣根涼介 著、文藝春秋)

 ただ一つ、やる気のない尊氏の背中を押すのは、弟・直義(ただよし)の存在だった。

「尊氏は幼い頃から一緒に育ったこの弟のことが大好きで、直義が戦で危機に陥った時だけ、即断即決、毅然として進軍を開始する。弟を救いたい一念で尊氏が戦うと、結果として、それが歴史を動かす局面になるんです」

足利尊氏の「負けない生き方」

 信長、秀吉、家康のような、勇猛果敢、知略に富むリーダーの姿が描かれるわけでは全くない。しかし本書から見えてくる尊氏像には、令和に生きる我々の心にどこか響くものがある。それは「負けない生き方」ではないかと垣根さんは言う。

「尊氏よりも遥かに優秀な楠木正成、新田義貞、後醍醐天皇はみんな次々に滅んでいくのに、なぜか尊氏だけが最後まで生き残る。ということは、個の優秀さだけでは測れない何かが歴史の流れの中にはあるんでしょう。

 僕は平成元年に社会人になった世代ですが、当時の若者はすでに『日本はそんなに良くならない』と漠然と感じていた。社会人一年生の時、『これからは負けない戦いをしよう』と考えたことを覚えています。そういう部分が尊氏にもあるんだろうと思いますね」

垣根涼介(かきねりょうすけ)

1966年生まれ。『君たちに明日はない』で山本周五郎賞。『室町無頼』で本屋が選ぶ時代小説大賞。主著に『光秀の定理』『信長の原理』『涅槃』等。

(初出:「オール読物」2023年7月号)