小説家・劇作家の菊池寛は、いまから70年前のきょう1948(昭和23)年3月6日、満59歳で急逝した。

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 1888(明治21)年12月26日、香川県に生まれた菊池(今年は生誕130周年でもある)は、執筆以外にも、雑誌『文藝春秋』の創刊や芥川賞・直木賞の創設、映画会社・大映の社長など多岐にわたる業績を残した。しかし、敗戦後の1946年、文藝春秋社を経営難から解散、『文藝春秋』は新会社を設立した池島信平らに譲った。彼はこのときの心境を、《戦争中、出版事業を何(ど)うにかつづけようと努力した者が、ヒドい目に遭い、戦争中、軍需事業などで、金を儲け、うまく紙を買いしめたものが、戦後の出版界に栄えている》と記している(文藝春秋編『天才・菊池寛 逸話でつづる作家の素顔』文春学藝ライブラリー)。それにもかかわらず、翌47年には当の菊池が、GHQ(連合国軍総司令部)から戦争協力者とみなされ、公職追放の指令を受ける。そのショックが彼の死を早めたともいわれる。

大映の初代社長就任記念 ©文藝春秋

 亡くなるその日、菊池は数日前から悪かった胃腸が治ったので、東京・雑司ヶ谷の自宅で全快祝いを催した。内々の会だったため、池島信平は招待されなかったが、見舞いがてら訪ねてみた。すると菊池は広間で一人、ダンスのステップやターンを繰り返していたという。その姿に池島は安堵し、茶の間で寿司をごちそうになっていたところ、異変が生じる。池島が急いで寝室に駆けつけると、菊池はすでにこと切れていた。心臓発作が起きて、わずか10分ほどのできごとであった(塩澤実信『雑誌記者 池島信平』文春文庫)。