鈴木敏夫責任編集『スタジオジブリ物語』(集英社新書)を読むと、徳間康快の名前が要所に出てくる。たとえば、『天空の城ラピュタ』(86年)を制作しようとしても制作拠点がなかったため、当時『アニメージュ』副編集長だった鈴木敏夫が制作スタジオを作りたいと提案すると、徳間は快諾。これがジブリの始まりだった。
「金なら銀行にいくらでもある」と言ったものの、銀行から融資が下りず
『紅の豚』(92年)を制作中、宮崎駿が新スタジオの建設を提案すると、徳間は「金なら銀行にいくらでもある」と後押し。超大作『もののけ姫』(97年)では、「最低16億円かかります」と報告した鈴木敏夫に対して「20億円にしろ!」とキリのいい数字を指示したという。なんとも豪快な話である。
ジブリとは関係ないが、日中合作映画『阿片戦争』(97年)を企画したときは、ビクトリア女王役をダイアナ妃に演じてもらおうと交渉、2億円のギャラを提示している(結局、王室の許可が下りずにキャンセル)。
とはいえ、豪快なエピソードばかりではない。「金なら銀行にいくらでもある」という言葉は、銀行に預金があるという意味ではなく、銀行から借りてきてやるという意味だった。しかも、結局借りられなくてあちこちからかき集めたという(『仕事道楽』岩波新書)。
ジブリの決断を後押しし続けた
ジブリ設立時、鈴木は徳間に「向こう10年間面倒見てください」と頼み込んだが、徳間は「バカやろう、一本やってうまくいくかどうかだ」と鈴木を叱り飛ばした。鈴木は「大物かと思ったら小物だな」と思ったという(『風に吹かれてI スタジオジブリへの道』中公文庫)。銀行から大量に金を借り、次々と事業に失敗したが、「借金取りは墓場までは来ない」と豪語していた(『メディアの怪人徳間康快』講談社+α文庫)。
それにしても宮崎駿に『風の谷のナウシカ』(84年)制作のチャンスを与えたのは徳間康快であり、その後もジブリの決断を後押しし続けた。宮崎駿から推薦された押井守にも『天使のたまご』(85年)を制作するチャンスを与えている。00年に死去したときは、宮崎駿が「徳間社長は私達の社長でした。私達は、社長が好きでした」と始まる弔辞を読み上げた。
『コクリコ坂から』は徳間の死後11年経って制作された作品だが、鈴木は「感謝の気持ちをあのキャラクターに込めました」と振り返っている(『文藝春秋』17年7月号)。「カルチェラタン」は徳丸理事長の鶴の一声で存続が決まるが、まさに徳間康快の生き様が映し出されていたというわけだ。