不況しか知らない「不況ネーティブ」たち
山上に対して「他人事ではない」「彼の半生は、もしかしたら『わたし』だったかもしれない」と言う五野井郁夫は、1歳ちがいの五野井自身と山上が物心ついてからずっと晒されてきた日本社会の「失われた30年」を、こう表現する。
困窮していても政府も社会も手を差し伸べてはくれず、受験以降は自分の努力もマンガやアニメ、ゲームやSNSの中とは異なり、報われない世界。何もこれはいわゆるロスジェネに限った話ではない。ロスジェネ以降のゆとり世代、さとり世代、ミレニアル世代、Z世代もほぼ同じ感覚だろう。
つまり山上被告にとっての「失われた30年」は、同時にこの国のロスジェネ以降の世代にとっても同様であり続けているのだ。世間的にはミレニアル世代やZ世代は輝かしいものとして語られがちだが、シャイニーで恵まれた人はどんな時代でもごく一部にすぎない。
たしかにロスジェネ以降、就職率は多少楽な面もあったかもしれないが、世の中に放り込まれた時のハードさという点では、おそらく現在の方がひどいだろう。なにせ反出生主義のような思想が力を持って共感を呼んでしまう時代である。この時代に自分や子どもが生まれてくることが不幸だと思えてしまう社会、先が見えない不安な世界だからこそ怪力乱神が再び力を持ち始めるのだ。(P.134「第二部 山上徹也、あるいは現代日本の肖像」五野井郁夫)
「無敵の人」や「親ガチャ」という言葉が周知され、社会前提と化して言論の進むネットの中では、マスメディアが幼い子どもたちを「デジタル・ネーティブ」と呼んで持ち上げた頃から、自分たちを自嘲的に不況ネーティブと呼ぶ年代層も現れた。
「オレを殺したのは誰だ」
この30年、経済は凋落の一途を辿り、この国はその間に育ち、社会に出ていかなくてはならなかった若者の生き血を吸い、見殺しにすることで延命を図ってきた。(P.16「プロローグ」池田香代子)
この一文には、自身の子どもがまさにロスジェネに当たり、その成長を見守ってきた池田の母親としての実感が滲(にじ)んでいる。日本という国が30年間にわたって、本来その成長資源となるべく産み育てられ体力も知力もあった若者たちを国家的に無策のまま見殺しにし、選択肢と可能性を潰し、低成長を叩き込んで内向きに消極的にし、人生をただ痩せ細らせたのを見てきた母親の嘆きである。