永遠に咲き続けていそうだ、この花は。
作品の前に立って、思わずそうつぶやいてしまう。というのもこれは、一度見たらなぜか忘れられず、その場を離れたあとも人の脳裡にずっと住み続けるタイプの絵だから。
オディロン・ルドンが描いた大作《グラン・ブーケ》である。大きな花束、という意のタイトルが付けられている通り、花瓶から伸びた種々の花が、画面いっぱいに咲き誇っている。まるで人格を持つがごとく、それぞれに個性的な花弁や茎だ。光源に照らされているのではなく、みずから鈍く発光しているような、弱々しくも華のある色彩も快い。視覚の歓びに留まらず、脳に直接働きかけてくる一枚だ。
同作をはじめとして、ルドンの描いた花に着目して構成された展示が、東京丸の内の三菱一号館美術館「ルドン−秘密の花園」である。
内面に目を向けた、ルドンの「黒い絵」
19世紀後半から20世紀初頭にかけて活動したルドンは、モネやルノワールら印象派の画家たちと同世代にあたる。フランスが拠点というのも変わらないけれど、両者の作風は正反対と言っていいほどかけ離れている。
何がそんなに違うのか。まず、色彩がまったく異なる。広く知られている通り、印象派といえばあの華やかな明るい色遣いがトレードマーク。
一方でルドンの描くイメージは、陰気なものが大半だ。胴体に人の顔が貼りついた怪しい蜘蛛や、気球のごとく舞い上がる巨大な眼を木炭画で表現した作品は、目にしたその夜は悪夢にうなされそうな不気味さに満ちている。
植物が芽を出して花をつけたかと思えば、その中心がなぜか目玉になっている《『起源』II. おそらく花の中に最初の視覚が試みられた》なども、妖しさ満点だ。ルドンは、人が抱える闇の部分を的確に見つけ出し掘り起こすことの達人だったのだ。
印象派とルドンがさらに大きく違うのは、描く対象。印象派は、目の前にある身近なものを描くことに専念した。モネは散歩に出かけた先のポプラ並木や自邸の池に咲く睡蓮をモチーフに選び、ルノワールは愛らしい女の子をモデルに描いた。
彼らの基本は、「見たものを、見えたままに描く」。自身の視覚的印象を、素早くそのままキャンバスに写し取っていった。彼らが印象派という名称で呼ばれる所以だ。
対してルドンは、目の前にはないものに、あえて目を向けようとする。先に見たおどろおどろしい石版画に描かれたモチーフは、どれも現実には存在しない。夢想したイメージをかたちに起こして、他者に見せつける。
私たちがルドンの作品を通して見ているものは、現実にある何かではなくて、彼が心に抱いた観念そのものだ。