甲子園出場こそ果たせなかったものの、鹿児島県大会での活躍が評価され、ドラフト2位で阪神タイガースに入団。パンチ力のある打撃に定評があり、プロ入り3年目にはオープン戦で首位打者を獲得するなど、周囲からの評価を集めていた横田慎太郎氏。そんな彼が脳腫瘍との闘病の果て、2023年7月18日に亡くなった。享年28。
ここでは、同氏がプロ入り前から引退試合までの印象的な日々を振り返った一冊『奇跡のバックホーム』(幻冬舎)の一部を抜粋し、闘病生活の際の忘れられないエピソードを紹介する。(全2回の2回目/後編を読む)
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金本監督からの差し入れ
金本監督や掛布さんをはじめとする現場の人たちからの激励も、「チームとつながっている」と感じさせてくれました。
沖縄で脳腫瘍だとわかり、宿舎の部屋を訪ねたとき、金本監督は話をすでに聞いていたらしく、僕に言いました。
「おれも知り合いの先生にいろいろ聞いてみたら、どの先生も必ず治ると言ってる。もう少し辛抱しろよ」
入院してからも、シーズン真っ只中にもかかわらず、何度も見舞いに来てくれました。中学生だった娘さんと一緒に来られたときがあって、娘さんが一生懸命折った千羽鶴をプレゼントしていただきました。
「娘がおまえのファンなんだよ」
そう言われたときは、「まさか」と思いながらも、とてもうれしかった。
差し入れもよくしてもらいました。あるとき、わざわざ試合前にお寿司を持ってきてくれたことがありました。有名店のお寿司で、「いま握ってもらったから、おいしいぞ」と言いながら差し出してくれました。
ところが、母によれば、よりによって僕はこう言ったそうです。
「肉が食べたかったです」
僕はまったく憶えていないのですが、どうやらまたもや天然ぶりを発揮したようです。「この野郎!」と呆れながらも金本監督はすぐにステーキ弁当を特別に手配してくれました。
金本監督が贈ってくれた色紙にも励まされました。
「病は気から」とはよく耳にする言葉ですが、それまで、それほど気に留めることはありませんでした。でも、いざ自分が病気になってみると、心にしみます。気持ちが折れてしまっては、治る病気も治らない。病気に打ち勝つには、なによりも前向きな気持ちが大事なのだということを、あらためて教えられた気がしました。
二軍監督だった掛布さんにも、病気がわかったときにすぐに電話しました。掛布さんは言ってくれました。
「いまは野球じゃない。自分の身体を守ることだ。そうすれば必ずもう一度野球ができるから、いまは野球を忘れて治療に専念しろよ」
お見舞いに来ていただいたときには、やはり一枚の色紙を手渡されました。そこにあったのは、「復活」という二文字。色紙を差し出しながら掛布さんは言いました。
「横田、これからドラマをつくろうな」
「ひとりに強くなれ」という言葉もいただきました。どちらの言葉も、とても僕の心に響きました。
金本監督と掛布さんからいただいた2枚の色紙は、ずっと枕元に置いて、くじけそうになるといつも見ていました。