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 ほかにも球団社長をはじめとするタイガースの関係者や選手の方々からは、本当にたくさんの励ましをいただきました。病名を知らされていない人もいたけれど、みんながみんな、「元気になって戻ってくるのを待ってるから」と言ってくれた。どれだけ勇気づけられたかわかりません。

寛解

 入院から半年ほどたった7月下旬――。

 検査を受けた僕は、「寛解」と診断されました。

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 寛解とは、完治ではないのですが、症状が消え、落ち着いた状態になったことをいいます。頭痛や首の張りは消え、視力も――以前の状態にはほど遠いですが――日常生活にはさほど不自由しない程度までは回復しました。

 先生から「寛解」という言葉を聞いたとき、僕は思わず涙を流しました。

 絶対に治ると信じていたし、術後の経過も順調だった。それでも、「二度と野球ができなくなるかもしれない」という不安は、ずっと僕につきまとっていました。その不安を振り払おうと、いつも前向きでいたつもりでしたが、やはりどこかで無理していたのかもしれません。

©文藝春秋

「寛解」という言葉を耳にしたとたん、それまで心のどこかにあった不安がひとまず取り払われた。その安堵感のほうが、喜びやうれしさより先に立ったのでしょう。ほっとした気持ちが静かに涙となってあらわれたのだと思います。

 もちろん、すぐにうれしさもこみあげてきました。

「もう一度、グラウンドに戻ることができる」

 そう思うと、飛び上がりたいほどでした。その日が来るのを願って半年も苦しい治療に耐えてきたのですから……。

「甲子園の風が届くところで治療させてください」

 まずお礼を言わなければならないのは、阪大病院の医療スタッフの方々です。みなさんには本当にお世話になりました。

 最初に診断を受けたとき、病院から提案されました。

「ほかの病院も回って、本当にここでいいと思ったら来てください」

 でも、主治医となる先生と話した母は、「この人なら」と即決しました。

「甲子園の風が届くところで治療させてください」

 そう言ってお願いしたのです。

 病院側は、各セクションの先生で構成されたチームをつくり、献身的に治療にあたってくださりました。

 主治医の先生は「絶対に治る」と約束してくれて、どんな疑問にも丁寧に説明してくれました。抗がん剤と放射線の治療で苦しかったときには、「無理しないで、ゆっくり過ごしましょう」とか「吐きたかったら我慢しないでね」と目線を落として親身になってくれたので、「ちょっと恥ずかしいかな」と思うことでも平気でした。ストレスなく過ごすことができました。

「もう一度野球ができるよう、神経には傷一本つけないでください」という僕の無茶な要求にも応えていただきました。

「どんなデッドボールを頭にくらっても大丈夫なように、頑丈にしといたから(笑)」

 退院の際には太鼓判を押していただきました。