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「僕の実家は自動車学校」プロ野球を引退し、突然経営を任された元巨人・林昌範が直面した夢と現実

文春野球コラム ペナントレース2023

2023/08/02
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「実家が自動車学校」というプロ野球選手は、僕以外にいたのでしょうか?

 昔は自動車学校の週に1度の休業日に、誰もいない教習用コースで野球をして遊んでいました。実家から高校に通う時は、自動車学校を横目に自転車を漕ぎました。実家が自動車学校だと告げると、地元の人はだいたい「あぁ、あそこの!?」と認識してくれました。従業員の方々は子どもの僕をかわいがってくださり、身近に自動車学校があるのは僕にとって当たり前の光景でした。

 中学生になった頃から、自動車学校を経営する父はことあるごとに「会社を継いでほしい」と言ってきました。僕にはその言葉がいつしか重荷になっていました。「いや、俺はプロ野球選手になりたいんだ」と考えていたからです。

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 父の思いに反発するように野球に打ち込み、念願かなってプロ野球選手になりました。自分から進んで「実家が自動車学校をやっている」と語ることには抵抗がありました。まったくプロのレベルに順応できないまま1年目が終わると、父からは「ダメだったら教習所を継げばいい」と言われました。その言葉も、「俺は野球の世界で生きていくんだ」と必死になれた一因だったのかもしれません。自動車学校のことを口にできるようになったのは、1軍である程度成績を残せるようになって「プロで勝負できる」という自信がついてからでした。

林昌範 ©時事通信社

パソコンの使い方からのスタート

 巨人で7年、日本ハムで3年、DeNAで6年。2017年に僕は16年に及ぶプロ野球での現役生活を終えました。父から再び「教習所をやってくれるか?」と聞かれました。

 現役時代はシーズンオフもトレーニングをしていたこともあって、実家に戻ることはほとんどありませんでした。久しぶりに実家に帰って父に会うと、「こんなにちっちゃくなったんだな……」と愕然としました。父の年齢が70歳に達したことも知らなかったのです。僕は「これはやらないといけないな」と腹を決めました。

 といっても、経営のことも自動車学校のことも何もわかりません。父の経営する自動車学校は千葉県の船橋と鎌ケ谷にあり、従業員は約100人います。社長である父からは会社の経理を見るよう命じられましたが、僕は簿記はおろかパソコンを使ったことすらないのです。まずはパソコン教室・アビバに通って、エクセルファイルを開くところからのスタートになりました。

 会社の経理データを見られるようになっても、自動車学校についての知識が乏しいので「これは何のお金なんだろう?」と戸惑うことばかりでした。過去5年分のデータをさかのぼり、船橋と鎌ケ谷の2つの会社のデータを行き来しながら比較して、ようやく大まかなお金の流れがつかめるようになりました。

 僕なりに懸命に勉強してはいましたが、従業員の方々は僕のことを遠巻きに見ているようでした。従業員から相談を受けることなどまったくなく、「どうせ何もわからないだろう?」という雰囲気がありました。それも当然だと思います。

 この時、僕はDeNAに移籍した2012年のことを思い出していました。この年、オーナー企業がDeNAに代わったばかりで、ゴタゴタがあったなかでのスタートでした。

 キャンプでのミーティングは、巨人も日本ハムも「優勝」という目標を達成するための内容がほとんどでした。ところが、DeNAはフロントの方が「いかにファンを獲得するか?」というテーマで選手たちに要望を出しました。

 現場のコーチ・選手たちからは「野球のこと、わかってないでしょう?」という冷ややかな反応があった記憶があります。会社で無力感を覚えるたび、僕は当時のDeNAのフロント陣の気持ちが少し理解できたような気がしました。

 2020年にはコロナ禍という非常事態を経験しました。休業要請が出て、自動車学校には誰も来なくなり、売上は右肩下がりに落ちていく。僕は誰もいない会社でパソコンを開き、売上データとにらめっこしていました。

 どこまで持ちこたえられる? 資金繰りはどうする? 100人の従業員の生活はどうなる……?

 考えれば考えるほど、恐怖に取り込まれそうになりました。社長と二人きりの時は、いつも暗い顔をして「まずいな……」と言い合っていました。

 僕以上に社長は何倍ものプレッシャーを背負い、頭をフル回転させて善後策を練っていたはずです。それなのに、社長は従業員といつも通りの表情で接していました。「自分がうろたえる姿を見せられない」という責任感があったのかもしれません。父の背中がドーンと大きく見えました。

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