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頼朝は生粋の京都人だった

『修羅の都』(伊東 潤 著)
『修羅の都』(伊東 潤 著)

本郷 頼朝の冷酷さの背景にあるのはやはり功臣の粛清なのですが、これは海音寺潮五郎作品の影響が強いのかもしれません。中国の歴史に通暁していた海音寺は頼朝を中国の漢王朝の高祖(劉邦)になぞらえています。高祖はかつての功臣を次々に粛清していて、頼朝はそれを手本にしたという書き方をしている。僕も研究者になる以前はやはりそのイメージが強かった。しかし実際に研究してみると、無茶苦茶に粛清しているわけではないんですね。そもそも、義経はあまりに政治的に稚拙で、頼朝としては鎌倉幕府を維持するために排除せざるを得なかったのではないでしょうか。

 頼朝と義経の関係性についても『修羅の都』では非常によく描かれていて、読んでいて腑に落ちます。

伊東 恐縮です。ただ軍事面では、頼朝は腰が重いですね。ライバルである平家との戦いでは、自身は鎌倉を離れず弟たちを派遣している。源平合戦の最大の黒幕である後白河院のいる京都にも、生涯で2度しか訪れていません。のちの天下人である織田信長や豊臣秀吉は非常にフットワークが軽く、自ら討伐軍を率いていくことで威信を高めていくわけですが、頼朝はやけに腰が重い。これは、どうしてなのでしょうか。

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本郷和人さん ©文藝春秋

本郷 確かに信長は非常に能動的で、それが彼の成功した大きな要因でしょう。それに対して頼朝は京都、つまり朝廷に接近し過ぎた平家を非常に意識して、あえて近づかなかったのではないか。頼朝は13歳まで京都で過ごしていますから、精神的にはむしろ生粋の京都人なんですよ。関東の人間ではない。頼朝のすごいところは京都人でありながら、京都に近づくことを律したことです。

伊東 朝廷に対して多分に迎合的というか、圧倒的な武力をちらつかせながら強硬に迫るというやり方をせずに、じわじわ権力基盤を奪っていくという頼朝のしたたかさには、京都生まれだったという背景、つまり都への憧れみたいなものもあったのでしょうか。

本郷 頼朝は非常に合理的な判断をする人ですが、晩年には娘の大姫を入内させようとしています。これは平清盛が失敗した轍ですから、合理的になればなるほど避けるはずですが抗えなかった。そこは京都人としての都への憧れは強かったのかもしれない。

 一方で後白河院をはじめとする朝廷というのは、まさに京都の闇というか、魑魅魍魎が蠢いている凄みがある。頼朝と政子は二人三脚でそこに挑んでいく。