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「源頼朝と北条政子は日本史上最強の夫婦か」伊東潤×本郷和人 日本史対談 #2

『修羅の都』『日本史のツボ』それぞれの著者は頼朝、政子をどう見るか

2018/03/10
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政子を正室にして信頼された?

伊東 なるほど。頼朝の強さも弱さも分かってきました。それでは政子像、あるいは頼朝にとっての政子というのはどういう存在だったのでしょうか。

本郷 僕が思うに政子は頼朝と関東を繋ぐ存在だったと思います。御家人のなかでも、一国を代表するような上総氏、千葉氏、三浦氏といった家の当時の動員兵力は300程度だったと考えています。ところが北条氏は、頼朝の旗揚げ時に50、60程度の兵力しかなかった、いわば小勢力です。旗揚げ時というのは失敗すれば一族皆殺しなわけですから、必死で兵隊をかき集めたはずです。にもかかわらず、有力者の6分の1程度しか動員出来ていない。そんな小さい家の娘を頼朝は生涯、正室として立てるのです。逆にいえば、関東の武士の目には、都の香りのしない田舎娘を大事にする鎌倉殿は信頼できると映ったのではないか。

©文藝春秋

伊東 自分たちの娘ともいえる政子が頼朝の傍らにいることで、関東の武士は頼朝を自分たちの代表として担げたわけですね。だからこそ公家の娘と結婚した実朝は、京都に同化しようとしたとして排除されてしまう。

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本郷 そういう側面はあったと思います。頼朝は鎌倉幕府を開闢(かいびゃく)させた時点では、当時の国内有数のセレブなわけです。いくらでも京都から綺麗な女性を連れてくることが可能だったけどそうはしなかった。なぜだ、と首をひねるところですが、『修羅の都』で描かれているような政子なら理解できます。頼朝にとっては、最大にして唯一の理解者なわけですから。

伊東 頼朝にも人並みに側室がいましたが、最高権力者としては、むしろ少ない方です。頼朝と政子の関係は、現在の夫婦関係に近いものだったのではないかと思います。

本郷 燃えるような恋愛模様から始まる2人の関係ですし、政子にとって頼朝と添い遂げるというのは、平家や朝廷といった強大な敵に挑む、まさに命がけの挑戦だった。最初から命を捨てる覚悟を持っていたんじゃないかな。

伊東 現代にも通じるものですが、男女の関係や愛情というのは、夫婦になってしまうと、恋愛感情から夫婦愛へと変質していくものです。頼朝と政子も同じで、政治状況に振り回される中で、変わっていく夫婦間の感情や関係を描きたかったという執筆動機もあります。

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母の情を捨てて大局を見た傑物

本郷 もう1人、『修羅の都』で異彩を放っていたのは北条義時です。彼は、頭はキレるし、実力行使もいとわない。そしてそれは、義兄である頼朝の優れた部分をどんどん吸収して成長していったわけですね。頼朝はそれを頼もしく思いながら、自分に取って代わろうとしているのではないかと不安にも思う。一方で作中でもそうですが、彼が生涯姉である政子に頭が上がらないというところが面白い。この描き方は、僕は歴史的にも正しいと思う。

伊東 頼朝と義時は当初、お互いを補い合う関係でしたが、ある時から頼朝が、本来自分の得意分野である政治全般を義時に委ねていく。まさに秀吉と石田三成の関係に近いのですが、それは頼朝が義時の才を認め、自分の分身を作りたかったのではないかと考えています。そして政子は、最終的には、自分の子どもの頼家よりも弟である義時を実質的な後継者に選ぶ。これは母親としては考え難い判断ですが、それでもそうした大局に立った判断を下せるところに、政子という女性の強さがあると思います。まさに偉大な方です。

本郷 歴史上の女性をみると、しばしば我が子かわいさで判断を誤るケースがみられます。そういう意味では政子は、母子の情を捨ててまで、鎌倉幕府という関東武士の理想を守った。こんな傑物は日本史上唯一といっていい。

伊東 究極の女傑こそ北条政子ですね。

本郷 『修羅の都』以降の史実では、北条家が執権としての地位を確立すべく、今度は頼朝を遥かに凌駕する粛清の嵐が吹き荒れます。そこで描かれる政子もぜひ読みたいですね。

伊東 ありがとうございます。『修羅の都』は自信作であり、最高傑作だという自負があります。ぜひ1人でも多くの方に、この濃密な人間ドラマを味わってほしいですね。

©文藝春秋

修羅の都

伊東 潤(著)

文藝春秋
2018年2月22日 発売

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日本史のツボ

本郷和人(著)

文春新書
2018年1月19日 発売

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「源頼朝と北条政子は日本史上最強の夫婦か」伊東潤×本郷和人 日本史対談 #2

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