「アメリカとの戦争は避けたい」
二・ニ六事件など相次ぐテロの恐怖で、軍部独裁の道が開かれた。満州事変、日中戦争の拡大を経て、ついにアメリカとの戦争が不可避な状態になっていく……。
「交渉を最優先とせよ! アメリカとの戦争は避けたい」
天皇の願いも虚しく、軍部は戦争へ舵を切っていく……。
12月1日、ついに対米戦争が最終決定される。12月8日、ハワイを奇襲。アメリカとイギリスに宣戦布告した。香港、マニラ、シンガポールを次々と攻略し、南太平洋の広大な地域をおさえた。
だが、破竹の勢いだった日本軍も、1942年6月のミッドウェー海戦で惨敗、戦況は一変する。連合軍の反攻が始まり、やがて日本本土への空襲が始まった──。
1945年3月、焦土と化した東京の街を視察した天皇。「これ以上、国民に塗炭の苦しみを味わわせることできない」。天皇の胸に「終戦」の二文字が宿る……。
7月、無条件降伏を求めるポツダム宣言が連合国から通告された。無条件降伏を求めるポツダム宣言に対し、陸軍の青年将校はいきり立つ。
「徹底抗戦あるのみ!」
無条件降伏を受諾すべきか、本土決戦か。侃々諤々の議論が続くなか、広島に原爆が投下され、ソ連が参戦する。水面下で陸軍のクーデター計画が進むなか、天皇が臨席する御前会議が開かれた。
「自分が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ」
8月14日、最後の御前会議で昭和天皇は聖断を下し、無条件降伏を受諾する──。
ポツダム宣言受諾が決まったが、徹底抗戦を主張する青年将校らは決起を求め、行動を始める。
「たとえ国が亡びても、日本人の魂が亡びるよりはいい! 最後まで戦うべきだ」
彼らにとって国体の護持とは、自分たちの増長するまま他国を侵し、どこまでも拡大していくための最強の方便なのだ。それが幕末の“尊皇攘夷”の本質でもあった。
文藝春秋