日本政府がポツダム宣言受諾を連合国に通達し、戦争終結に向かっていた8月14日の正午近く、満州国(現・中国東北部)の平原では、凄まじい殺戮(さつりく)が行われた。葛根廟(かっこんびょう)と呼ばれるラマ教寺院に向け、8月11日から逃避行を続けていた約1200人の人々が、満州国とソビエト連邦との国境近くの草原でソ連軍の戦車隊に襲われたのだ。翌年帰国できたのは、たったの百数十人。正確な犠牲者数は今もって分からない。これを「葛根廟事件」という。

約1200人の人々が、満州国とソビエト連邦との国境近くの草原でソ連軍の戦車隊に襲われた(赤星月人「葛根廟事件邦人遭難の図」天恩山 五百羅漢寺所蔵)

 大島満吉氏。昭和10年生まれの87歳。78年前、「葛根廟事件」の現場にいた9歳の大島は、母と5歳の弟、2歳の妹と3人で天然の壕(平原の大きなくぼ地、溝)に逃げ込み、難を逃れた。しかしそこで集団自決が始まり、母が2歳の妹・美津子ちゃんに手をかけ、彼はそれを目の前で目撃している。その言葉にできない体験を、大島は後世に語り継いでいる。(全2回の2回目/1回目から続く

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居留民保護よりも自分たちの退却を優先した関東軍

 X氏ら、集団の指導者たちについて踏み込んで語った大島。いつものほほえみのままゆったりと話す。強い話し方はここでもしない。あえて筆者が質問したから、答えてくれたまでだ。責める響きよりも、「なぜ?」の響きが強い。疑問は事件から80年近く経っても、消えていない。話されず、全容がつかめなくてもそれでも、「なぜ?」のかけらは、こうしてどこかに残る。後世に生きるものは、そこを見落とさないようにしたほうがいい。聞く私の心のうちに「責任」という語が立ち上がってくる。

 責任、というなら、X氏ら避難民の指導者よりさらに上の階層、そもそも自国民を第一番に守るべき軍隊の責任は、まず明確にあっただろう。興安(こうあん。現・内モンゴル自治区ウランホト市)の街には憲兵隊や特務機関の人々もいたが、ソ連侵入後には姿を消していたという。大島としては、軍隊が居留民を守らずに街から逃げたとは捉えず、防衛上の配置転換のために別の場所へ集結しようとしていたのだと、理解をしめそうとはするが、

「N(取材時実名)さんという女性が特務機関に就職していました。8月9日にソ連の侵攻がはじまって、10日には街から軍隊がいなくなりました。Nさんもそれは予期してたわけだね。関東軍の人たちが大急ぎで荷造りしているのが見えている状況。お札がね、荷物からはみ出している。Nさんはそのとき軍隊のトラックに乗ってっちゃったんだよね。残った家族は葛根廟事件で全員死んだ。戦後10年経って、慰霊祭やったときに、Nさんが生きているのが分かった。だから、あのとき軍隊は、やっぱ、逃げたって言えば、逃げたんだよね」

 ともいう。

9歳のときに「葛根廟事件」を経験した大島満吉氏 ©釜谷洋史/文藝春秋

「泣く子も黙る関東軍」とうたわれ精強を誇った満州駐屯の日本陸軍部隊は、悪化する南方戦線へ次々と兵力を抽出され、終戦間際は弱体化していた。興安付近には第107師団が配置されていたが、国境の向こうで対峙する機械化されたソ連軍より装備も兵力も劣っていた。ソ連軍侵入後、関東軍は、南満州の朝鮮国境付近まで下がって敵を迎え撃つという方針を採り、大島の認識通り、同師団も方針にあわせて移動し、撤退しつつ戦ったが大きな被害を出し、兵士たちはシベリアへ抑留されている。