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終戦、78年目の夏

「目隠しされて銃口を当てられた」ソ連軍による“大虐殺”から逃亡中、中国人に拘束され…「葛根廟事件」生存者が語った“事件後の記憶”

「目隠しされて銃口を当てられた」ソ連軍による“大虐殺”から逃亡中、中国人に拘束され…「葛根廟事件」生存者が語った“事件後の記憶”

「葛根廟事件」から78年 #2

2023/08/15
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 弾の傷は悪くなるばかりで、その血膿で衣服がいつもべとべとになり、臭いにおいがしていました。私を預かった農家の夫婦は、とても薄情で冷たい人たちでした。
 

「お前は臭い! 臭い狗(いぬ)だ!」
 

 と言って、家の中に入れてもらえず、夜になって土間の隅に寝ていました。(中略)毎日「臭い! 臭い!」といじめられるので、動く右手だけで着ている物を洗い、乾くまで藁の中にいました。左手は脇の下の傷のためお茶碗も持てず、犬や猫のように口を突っ込んで食べていました。半年ほどたったころ、家の夫婦から、「お前は何の役にも立たん」と言って蒙古軍に売られました。(中略)朝から晩まで山のような洗濯と掃除でこき使われました。(中略)その兵舎でも「汚い! 臭い、お前は豚だ!」と罵倒され、自分のいる場所もありませんでした。(『炎昼 私説 葛根廟事件』大櫛戊辰 文芸社)

 撃たれ、瀕死の傷を負った12歳の少女は異国の地で売り買いされた。彼女に狗や豚と罵声を浴びせて平気ということは、日本人は敗北して没落した人たちであり、同じ人間と見做していないということ。それは戦前・戦中まで、彼らの地に入っていった日本人が、他国の人をそのように扱ったことの裏返しでもある。

 幸子さんの父は、興安街にあった軍官学校の教師だった。蒙古軍の将校に偶然父の教え子がおり、助け出される。この偶然がなかったら彼女は病死していたかもしれない。助け出されても、以後も彼女自身の努力では到底変えられない道をたどっていく。優しい中国人農夫にもらわれ、成人するまで育ててもらうが、現地人と結婚することになった。夫も優しかったが、文化大革命の嵐が吹き荒れると、「日本鬼子」とふたたび罵倒される日々が始まり、民衆裁判に引きずり出されて村中を引き回される。

 そのうちに耳が聞こえなくなる。離れ離れになっていた妹と再会できたのは、帰国事業のはじまった1981年。文革の嵐のなか家から出られなかった彼女は、日中国交正常化も知らずにいた。事業によって、ようやく日本に戻ったとはいえ耳は不自由。あとから呼び寄せた中国人の夫もやがて失明した。事件以来、国家に翻弄され、どの国にも完全な居場所は見つけられないまま、2人で支え合うことで後半生を送った。

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戦後、何十年も放置された残留孤児たち

 大陸に軍隊と人を送るだけ送っておきながら、戦争に敗れると国家は人々の「現地定着方針」を取り、満州から朝鮮半島まで着の身着のまま逃げてきた人々はとどめ置かれ、厳しい冬を越せずに大勢の子どもも亡くなった。その後、日中両国間の関係が冷え込む時代になると、残留した人々は何十年も放置されたのだった。

1983年、父親の石丸政吉さん(右)と38年ぶりの再会の喜びをかみしめる中国残留孤児の張桂珍(次女の美知子)さん ©時事通信社

 残留孤児たちは帰国できても、すでに中高年。浦島太郎のごとく言葉や習慣の違いを乗り越えるのは相当困難で、日本での生活や就労が上手くいかず、再び中国へと戻ったり、日本に定住できても困窮のなかで生活を続ける人も少なくなかった。それは中国で育った2世にも連鎖し、現在へも繋がっている。戦争はこうして一度始めると終わってくれない。

 大島の話を聞いていて、責任、という言葉が何度も頭のなかを駆け巡る。戦争は終わり、世の中はガラリと変わったが、似たことが起こる仕組みは、もうこの国にほんとうに残っていないだろうか。国を動かす人々が、正当な理由を言って大きな計画を進め始めれば、問題が起ころうと誰も止めることはできず、誰も責任を取り切れないという事態を、私自身もこの数十年で繰り返し見てきたように思う。

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