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 ただし満州全体でみれば、やはり軍隊は居留民保護よりも退却を優先している。軍人・軍属、軍関係者やその家族がもっとも早い時期に列車で退避していたとの証言は枚挙にいとまがない。これを逃げる、と呼ばないとするならば、あとに残され、ソ連軍や現地民に直接襲撃され、徒歩で逃げ続けた年寄や女性、子供たちは、誰が守るべきだったというのか。

 誰にも守られずに、それでも事件を生き延びた子供達にとって事件は終わらず、それは現在まで続いている――。

満州に侵攻するソ連軍 ©共同通信社

異国の地に置き去りにされた女性や子どもの行く末

 大島が壕で別れた、明るく気丈な、食べ物をふるまってくれた蓉子ちゃん。兄弟はみなバラバラになった。長男は壕内で亡くなり、弟2人と彼女は壕から出て生き残ったものの、蓉子ちゃんは戦後まもなく、現地の農村で病死した。あの夜、蓉子ちゃんと同じように連れ出され、32名が生き延びたことが分かっている。大島はその数字には疑問を持っている。

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「32名の他はどうなんだと。他にいないのかって言ったらね、私は、いただろうと。あの現場から50人ぐらいは引っ張り出されたんじゃないだろうかなと。もちろん、そのまま病死しちゃった人もいるわね。それと1つには、日本人だとはあくまで名乗らせない。あともう1つは、売買された人もいる。全部はね、おおやけにはならないわけだから」

 事件後、陽が沈んだあとの壕内には、大勢の現地人が入っていた。遺体から衣服を剥ぎ、遺留品を持ち去るために。そして、赤ん坊や子どもは助け出されて、現地で養育されるケースも目立った。蓉子ちゃんもそうだった。子どもを不憫に思って助ける人もいたし、教育水準の高かった日本人は賢く高く売れるからと、人身売買のために拾われることもあった。

 戦後の中国社会で生きざるを得なくなった置き去りの女性や子ども。ある人は、生きるために現地人の妻となり、ある子どもは養子になった。「残留婦人」、「残留孤児」である。この夜助け出された子どもの例をひとつだけ引く。

引き揚げ船に乗ることができなかった日本人孤児。この子はどのような戦後を生きたのだろうか(写真提供=平和祈念展示資料館)

12歳の少女は異国の地で売買され「 臭い狗だ!」と罵倒された

 坂井幸子さん。事件当時12歳。ソ連兵と戦車が去った後、撃たれた傷によって血まみれのまま目を覚ますと、母は妹を残して死んでいた。一緒に逃避行した生き残りのおばさんたちは、道の途中でソ連兵に強姦され、一人のおばさんは、おぶってきた赤ちゃんを絞め殺し、おんぶ紐を木にかけて首を吊った。その後も残ったおばさんたちは強姦され、小屋に閉じ込められ焼き殺された。逃げ出した幸子ちゃんは、手当もされないまま現地の農家の夫婦に拾われる。妹とは生き別れとなった。