事件の夜、最期の晩餐をして大島少年らを勇気づけようとしてくれた蓉子ちゃんの弟も、残留孤児として生存していた。大島は、40年近く経って再会したとき、なんの言葉もかけられず、ただ涙のままに手を握り合うだけだった。大島らは孤児の身元調査に最大限の協力をし続けてきている。それは大島自身も、一歩間違えば孤児になったという思いがあったからだ。
冤罪で家族が銃殺される直前に1人の女性が進み出て…
事件のあと、父母や兄弟たちとの逃避行中のこと。現地民兵の一団に遭遇した。中国語のできた父は、一団の首領から道を聞かれ、教えた。しばらくすると彼らは非常に怒って戻ってきて、現地人の集落で休んでいた一家を突如拘束。理由を聞くと、父の教えた方面へ行ったところ、残留していた日本人たちがおり、銃撃戦になったのだと。仲間が1人撃たれ死んだという。実際は首領が勘違いの方面へ進んだ結果であり、父に責任はないのだが、説明しても聞き入れない。大島一家を全員処刑すると息巻く。村人たちは取りなしてくれたが、
「それでも、大人だけはどうしても殺すと言って。目隠しさせられて銃口を当てられちゃったわけよ。(大島少年たちは)撃たないで、誰か助けて、殺さないでって、もう、いや、もう、声も出ないくらい泣いちゃった」
首領たちは、お前たちは嘘を教えた、と怒鳴って頑として聞き入れない。「うちの父なんか、もう土下座してて立ち上がれない状態」だった。そこへ1人の女性が進み出て、銃口の前へ立つ。
「60歳ぐらいのおばあちゃんが、銃を押さえて、『殺すんだったら、いつでもできる』と説得しだした。嘘を言ったとか言わないとかは水掛け論でどうにもなんないから。この人達を『あなたたちが助けることができたらね、大勢の味方を作ることになるんだよ』と」
首領はおばあちゃんの言葉で、銃をおろしたのだった。一団のメンツの立つ理由を、機転とヒューマニズムから言ってくれたおばあちゃんにより、大島一家は命を拾う。
「中国人に感謝している」とほほえむ大島だが、ぽつりと、あのおばあさんのいた村へ行けていないことだけが心残りだ、と付け加えた。戦後、何度も事件現場付近を訪れた大島や遺族たちだが、かつては、中国各地を自由に歩き回ることができなかった。現地での正式な慰霊祭もいまだにできていない。当局から許可がでない。地域住民を刺激してしまうのだ。やはり侵出してきた国の人々の慰霊祭、と現地ではみなされてしまう。遊牧民のパオを草原に張って、そのなかで一度きり、慰霊を行ったのみ。
そして中国人への感謝を感じつつも、ロシア人に対しては心の葛藤がいまも消せないでいる。戦後、旅行先で出会い、気さくに笑いかけてくれたロシア人たちとは、握手をしても、心の底から笑い合うことはできなかった。あの事件の生存者として当然の感覚だと思う。いかに戦後になって相互理解を深めようとしても、越えられない感情の断絶やしこりを残すのが戦争。