1994年5月、大阪市東淀川区に住む大屋隆司の父親・横山道雄が突然、失踪した。この失踪騒ぎの後、みるみる衰弱していく父を看病する中で、隆司はこれまで知らなかった父の過去を知る。
父の戸籍上の名前は「大田正一」といい、死亡により除籍されていた。大田正一といえば太平洋戦争末期に「人間爆弾」と呼ばれた特攻兵器「桜花」を発案したとされる人物である。なぜ彼は、戸籍を変え、別人になってまで生きようとしたのか?
ここでは、カメラマン・ノンフィクションライターの神立尚紀氏が、大田正一の謎多き生涯を追った渾身のノンフィクション『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)より一部を抜粋。神立氏と大屋隆司・美千代夫妻は、大田正一の実像に迫るため、戦時中の大田を知る人物を訪ね始めた——。(全2回の1回目/2回目に続く)
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「名前を失くした父」
大屋隆司・美千代夫妻に、「大田正一の家族」であることを明かされた私は、これまで取材などで出会った旧海軍の関係者の顔を思い浮かべた。
2014年の時点ではすでに多くの関係者が亡くなっていたが、幸い、生前の大田をよく知る何人かの人物をインタビューしたことがある。支那事変の空の戦いについて取材した稲田正二・元中尉は、1938年(昭和13)から39年にかけ、中国に配備された第13航空隊で大田と同じ陸上攻撃機の搭乗員だった。稲田は「終戦から数年後、常磐線の列車内で大田と偶然再会し、新橋駅西口の闇市に連れて行った」という。
しかし、桜花部隊である第721海軍航空隊(神雷部隊)に関しては、それまで約20年のあいだに慰霊祭や戦友会に何度も参加して、元隊員に話を聞く機会があったにもかかわらず、こと大田に関する証言は断片的にしかとれていなかった。神雷部隊の元隊員に「大田正一の話を」と問うと、ほとんどの人が困惑の色を浮かべ、あるいは不機嫌な表情になり、ふだん闊達な人でも言葉を濁したり、沈黙したり、話題をそらせたりした。
大田のことになると口を閉ざす分隊長たち
桜花隊の分隊長だった平野晃・元大尉(2009年12月没)は、かつて私にこう言った。
「私は神之池基地の近くの高松小学校に起居していたので、そこに整備員から報告がありました。大田中尉は自室の机に遺書を残し、自分で零式練習戦闘機を操縦して海のほうへ飛んで行ったと。覚悟の自決飛行であることは明らかだと思いました」
しかし、私が、大田は死にきれずに生きていたのではないかと水を向けると、口を真一文字に結んで黙ってしまった。同じく分隊長だった新庄浩・元大尉(2013年3月没)は、
「生きているとは噂に聞いたけど、詳しいことは知らない」
と言ったきり、その後は大田に関する話題をいっさい受け付けなかった。大田の話は、当事者にとって忌避すべきものであり、まるで触れてはいけないタブーになっているかのようだった。