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終戦、78年目の夏

「生きているとなったら家族にも迷惑がかかる」“人間爆弾”と呼ばれた特攻兵器「桜花」発案者の生存が“戦後のタブー”になった本当の理由

「生きているとなったら家族にも迷惑がかかる」“人間爆弾”と呼ばれた特攻兵器「桜花」発案者の生存が“戦後のタブー”になった本当の理由

『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より #2

2023/08/13

genre : ライフ, 社会

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 1994年5月、大阪市東淀川区に住む大屋隆司の父親・横山道雄が突然、失踪した。この失踪騒ぎの後、みるみる衰弱していく父を看病する中で、隆司はこれまで知らなかった父の過去を知る。

 父の戸籍上の名前は「大田正一」といい、死亡により除籍されていた。大田正一といえば太平洋戦争末期に「人間爆弾」と呼ばれた特攻兵器「桜花」を発案したとされる人物である。なぜ彼は、戸籍を変え、別人になってまで生きようとしたのか?

 ここでは、カメラマン・ノンフィクションライターの神立尚紀氏が、大田正一の謎多き生涯を追った渾身のノンフィクション『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)より一部を抜粋。元桜花搭乗員の植木忠治・元一飛曹が、大屋隆司・美千代夫妻に語った大田正一の記憶とは——。(全2回の2回目/1回目から続く)

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元桜花搭乗員の植木忠治・元一飛曹と搭乗員たち(写真=『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より)

◆◆◆

植木忠治の証言

 大屋夫妻は、もう1人、桜花搭乗員を訪ねた。東京都町田市在住、97式艦上攻撃機の操縦員から桜花搭乗員となった91歳の植木忠治・元一飛曹である。

 隆司がのちに私に語ったところによると、自宅で出迎えた植木は、隆司の顔を見るなり「お父さんに似ておられる」と言って顔をほころばせた。柔らかく包み込むような植木の雰囲気に、厳しい反応を覚悟して臨んだ隆司と美千代は安堵したという。

「昭和19年8月、私は姫路で飛行練習生を教えていたのですが、そのとき、戦況を挽回する新兵器ができたという話があった。それに乗るにはだいたい飛行時間500時間から1000時間ぐらいの搭乗員を募集してるんだと。まあ、志願ということだけども、ほとんど(強制的に)行けということなんですよね。それで、姫路の航空隊からは私を入れて7人が選ばれた。私は12月に桜花の訓練基地だった神之池に行ったです」

 植木は、記憶の糸を手繰るように語り始めた。

桜花以外の武器の開発にも関わっていた

「それは、はじめて桜花を見たときはガッカリしたよ。自分のガン箱(棺桶)がこんなもんかと。ほんとだったらエンジンのついた飛行機で行きたいと、最初は思った。だけどそれじゃ、爆弾が小さくてたいした効果は上がらない。零戦に爆弾を積んでぶつかっても敵艦はなかなか沈みませんからね。爆薬の量が多い桜花なら、命中すれば敵艦を真っ二つにすることができる。どうせ死ぬならでかいのをやりたいから、のちに桜花の出撃が失敗に終わったために零戦で出撃する志願者が募られたときも、みんなが『あくまで桜花で死にたい』と言うようになったんです。

 私はあとから神之池に来た若い搭乗員に“死に方”(桜花の操縦法のこと)を教えていて、大田さんも指揮所で一緒にいました。大田さんは兵隊あがりだけども特務士官だからテントのなかで肘掛け付きの折椅子に座り、私ら下士官は外で木の長椅子です。でも大田さんは、隊内での役割はなにもない。ふだんやることはなにもないの。基地のなかでは大事にされてたんじゃないですかね……。桜花の改良型をつくるのに、横須賀の空技廠(海軍航空技術廠。工場を備え、航空機の開発、設計などを担当する研究機関)と行ったり来たりはしてたようですが。

 そういえば神之池基地で、敵の艦上機の空襲がはじまった昭和20年(1945)2月頃、飛行場に突っ込んでくる敵機に火薬ロケットを使って投網をかける仕掛けをつくったことがありました。いま思えばあれも大田さんが考えたんだろうと思う。ボタンを押すとロケットに点火して、網がバーッと上まで飛んで、それで機銃掃射してくる敵機を引っかけるという……」

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