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「それはそのときの血気っていうのはすごかったね。(止めに入ったのが)大田さんでなければえらいことだったでしょうね。大田さんは兵隊から叩き上げた特務士官で、われわれ下士官にとっては親玉みたいなもんだから、そらもう大田さんの言うことならなんでも『はあ』って聞いてましたよ」

 と、植木は隆司に語った。

「大田さんは戦争に一生懸命だったと思うんです。攻撃に行っても墜とされる、いくら魚雷を撃っても当たらない。そんな実戦経験での悔しさから、大田さんはこれなら戦果を挙げられると桜花を考案したかもしれないけども……」

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 大田は上層部に利用されたにすぎないのではないか、と植木はみている。

「飛行機も少なくなってきた、燃料もなくなってきた。どうやって戦をするか、もう特攻しかない、というときに、兵隊上がりの人が考えたことにすれば、上のほうは楽なんです。上層部で先にこういうもの(桜花)をつくっちゃって、乗れ、飛んでいけ、と言ったら、いくら軍国主義でもね、問題になると思う。

 これ、私の主観ですよ。俺なんかだって、上の参謀かなんかが桜花をつくって、これで死んでけって言われたら文句あるよ。だから大田さんが発案したことにしとけば、実戦をやってきた人のひとつの考案だったということにすれば、そんなに問題にならない。それをうまく利用された感じがするの」

特攻兵器「桜花」の透視図(写真=『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より)

「大田が生きている」ことが触れてはいけない雰囲気になった理由

 植木もまた、1945年8月18日、大田が1人で練習機を操縦し、神之池基地を飛び立つ姿を見送っている。離陸した大田は旋回もせず、そのまま鹿島灘の沖へ消えていった。ところが戦後まもなく、死んだはずの大田とバッタリ出会ったのだという。

「昭和22年(1947)の春、戦争中にお世話になった下宿の人にご挨拶するために佐原から神之池に行くバスに乗ったら、目の前に大田さんがいるじゃない。亡くなったと思ってたからびっくりしたよ。そのとき大田さんは軍服を着ておられたですよ、戦争中に着ていたのと同じ草色の第3種軍装。顔に怪我されていて、ああ、飛び立ったあと海に不時着水して、計器板に額をぶつけたんだな、と思ったんだけど。

 向こうから気づいて、『よお!』と言って私の隣に座ってきました。いまなにしておられるんですか? と訊いたら、牛を飼ってるんだ、(茨城県の)石岡で牧場をやってるんだ、と。『牛っていうのはすごい。草を食ってあれだけの牛乳を出すんだから』……食糧難でしたからね、その当時は。30分か40分でしたが、そんな話をいろいろしました」

 植木と大田の戦後の接点はこのときだけだった。神雷部隊の生き残りは毎年春分の日に靖国神社に集い、慰霊昇殿参拝を行っている。あるとき、大田を探しにきた家族とおぼしき女性と子供が参列したことがあったが、大田本人はついに一度も姿を現さなかったという。