「昭和40年(1965)に近い頃でしょうか、靖国神社で北海道の人が、『大田さんが生きてる』という話をしたですよ。(戦後まもない時分に)札幌の道庁で会ったらしい。それでそのときに『私も会いましたよ』って言ったら、桜花隊の分隊長だった平野晃大尉、のちの昭和51年に航空自衛隊トップの航空幕僚長になられた人ですが、『その話は伏せてくれ』と言われたですね。『ご家族にも殉職として措置がしてある。生きているとなったらご家族にも迷惑がかかるから、君たちはとにかくこのことは伏せてくれ』と、こういう話でしてね」
それ以来、「大田が生きている」ということは、桜花隊関係者の間では、知っていても触れてはいけない雰囲気になったようである。
「生き残った負い目」と「戦後の苦労」
隆司は植木に、
「戦後、父は自分で名乗り出ることはできなかったんでしょうか」と問いかけた。
「それはなあ……。生き延びたってことは、それはきついぜ、精神的に。死にに行ったのに、途中で(漁船に)助けられて生きる世界というのは、こりゃあ非常に苦しい。だからね、世間の批評は別として、その後も強く生きられたのは立派だと思うんです。
(1945年)8月15日までは神様ですよ、私たちは。8月16日以降はチンピラですよ。故郷に帰ってみたら、みんな就職に困っちゃった。特攻隊員だったような、そんな危ない者は雇えないって……。だから戦後はみんな苦労したですよ」
と植木は答えた。直接の答えにはなっていないが、「生き残った負い目」と「戦後の苦労」が名乗り出ることを拒ませた、と言いたかったのだろう。
「だから今日あなたにお会いしたらね、これだけは言っておきたいと思っていたのは、お父さんのことを誇りに思ってほしい。批判する人もいるかもしれん。しかしそういう世の中の圧力に負けないでほしい。生きるってことはすばらしいことだ。苦労はあるけど、私だって20歳で死ぬところをこうやって90いくつまで生きてくると、生きてることのすばらしさを感じるよ。みんながみんな、大田さんを恨んでるなんてことは絶対にない。その気持ちをあなたに伝えようと思って、今日は楽しみにしてたの」
植木は、持病で入院する予定を先延ばししてまで隆司が訪ねてくるのを待っていたのだという。別れぎわ、植木は隆司の目をじっと見つめて、
「とにかく強く生きてくださいよ」
と言った。桜花を発案した父は隊員たちみんなから恨まれているのではないか──そんな不安が心地よく溶けてゆくような、あたたかい言葉だった。