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 私は長年の友人であるNHKの考証担当シニアディレクター・大森洋平からの依頼を通じてこの番組の制作を手伝い、久保田の誠実な取材姿勢と取材力に感銘を受けていた。久保田が「おじいちゃんと鉄砲玉」で祖父の戦友を訪ね歩いたように、大屋隆司・美千代夫妻の「父親探し」の旅をドキュメンタリーにできないだろうか。

 久保田の祖父・北島源六は、7人1組で搭乗する一式陸上攻撃機の偵察員(偵察、航法、無線、爆撃などを担当する)だった。後に詳述するが、大田正一も一式陸攻のベテラン偵察員だったから、もしかするとどこかで大田とすれ違っているかもしれない。

 幸いにも久保田の番組提案に局がゴーサインを出し、久保田と私たちの取材が始まる。桜花搭乗員の生き残りなど関係者への取材を重ね、ETV特集「名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔」として、2016年3月19日、放送にこぎつけた。

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 この番組の制作を通じて、2015年夏、63歳にしてようやく実現した大屋隆司の「父親探し」の旅が始まった。

大田正一(写真右)と大屋隆司(写真=『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より)

「最低の人間や」

 隆司と美千代は、愛媛県今治市の高齢者施設に入居している佐伯(旧姓・味口)正明・元上等飛行兵曹を訪ねた。佐伯は1945年1月17日、桜花の練習機での訓練で着陸に失敗、顔面と頭部を36針縫う瀕死の重傷を負い、そのために出撃することなく神之池基地で終戦を迎えた。終戦時、19歳。

「大嫌いでしたね」

 挨拶もそこそこに佐伯は言った。

「神之池でしょっちゅう会ったけど、直接話をしたということはまずなかった。大田少尉のことは、極端に言うたら(われわれの間では)ボロクソやった。最低の人間や。あいつがこういうことを発明したから俺たちは死なないといかん、そう思う者がかなりおったはずです」

 やはり、父は快く思われていなかったのか──隆司はこれまでにも、本や雑誌で大田正一に対する批判的な記述を目にしたことはあったが、じっさいに桜花で死ぬはずだった当事者から、面と向かって悪感情を突きつけられたのは初めてだった。

さかんに耳に入ってきた太田への批判の声

 戦争が終わって70年が経ち、年齢を重ねた佐伯の記憶は不確かになったり、後から上書きされた感情や、付け加えられた知識も入り混じっているのだろうが、佐伯は次のように言葉を継いだ。

「じつはこんど、人間爆弾の桜花というのを海軍省が作ったんで、そのパイロットになって『敵艦に命中せい』っていうんですよ。自殺ですよね。桜花は爆弾の形しとるでしょ。だから(着陸するための)車輪がないし、練習機には橇(そり)をつけた。それで(訓練中に着陸に失敗し)ジャンプしてね、ほんで私、ケガしたから生き残れたんや」

 佐伯は神雷部隊の戦友と4人で写った写真を指して、「私を除いて3人とも戦死しました。私だけが生き残ったわけやからね。みなさんに説明するとき涙が止みません」と言い、さらにこう言った。