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ファッションの改革者

 一本気な女性で、特に男性に対しては、思い込んだら一直線。1990年代半ば、彼女が作家のオリヴィエ・ロランと出会ったときのことだ。彼は当時、老舗の出版社に勤めていて、家も会社の近くにあった。するとジェーンもその家の近くに引っ越したのだ。インテリの多い編集部だったから、オリヴィエが恥ずかしい思いをしたのは想像に難くない。

 ジョン・バリーと付き合いだした時は、すぐに自分の父親に紹介をしているし、ジャックが誕生日に撮影で東南アジアに行った時には、プレゼントを持ってわざわざ東南アジアまで訪れたほどだ。

 男性から影響を受けることもある。歌手のセルジュと交際していた時は何も言われなかったが、知的な監督のジャックと一緒になると、「お勉強もちゃんとしなさい」とジェーンに叱られたと、シャルロットが明かしていた(笑)。

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 ただ、男にかまけて子どものことをほうっておく、いまでいう「育児放棄」をするような女性ではなかった。映画の撮影でも、コンサートでも、どこへ行くにも子どもを連れて行っていた。

 だから子どもたちはジェーンのことが好きだったし、その姿はパリでも愛されていた。カトリックの国だから、離婚や不倫はご法度のはずだ。でもあまりにも彼女が堂々としているから、逆に憧れの目で見られていた。メディアにも叩かれない。

 もちろんそれは、ジェーンが大スターであることが大前提だった。173cmと長身で足も長く、ツイッギーみたいなミニスカートも似合う。綺麗なだけでなく、ファッションも最先端。着飾る時代に白いTシャツにデニム、ボーダーのカットソーやかごのバッグなど、シンプルなアイテムを、彼女は使いこなした。

 ファッションの改革者として、世界中の女性を魅了し続けた。パリの女性たちは彼女が持っているものを逐一チェックし、同じブランド品を欲しがった。

 傍で見ていても彼女のファッションには黄金ルールがあったように思う。例えば首周りのⅤゾーン。顔が映えるからと、必ず空けていた。病気をしてからは首を温かくしなければならず、タートルも着ていたが、余程のことが無ければⅤゾーンは空けていた。

若者のファッションアイコンだった ©時事通信社

 服の素材も重要だ。雨の日は頑強なバーバリーで、暑い日は涼やかなリネン。私が夏にポリエステルの服を着ていたら、「なぜそれ?」とリネンのシャツをくれたこともある。

 スニーカーをお洒落に履くのも、メンズのネクタイをベルトのように巻くのも、何十年も前から彼女がやっていたこと。流行にとらわれない女性だった。

 仕事も選んでいないように見えて、選んでいた。芸能人は一種のブランドだ。ジェーン・バーキンというブランドを作り上げるため、自分の中で、頭をフル回転させていた。自身の名前が付いたバーキンも、「エルメスなら」ということで、認めたところもあったのだと思う。

村上香住子氏の「わが友ジェーン・バーキン」全文は、「文藝春秋」2023年9月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。