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松本剛の応援で思い出した大島康徳のこと…低迷するファイターズには『知恵袋』が必要だ

文春野球コラム ペナントレース2023

2023/09/10
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苦しいシーズンももう終盤…スタンドからの応援に思い出したOB戦士の名前

 シーズンも押し迫ってきた。日本ハムは夏場に喫した大連敗が響いてか、5位と最下位をうろうろする日々が続いている。今のチームはどんな状態なのか、8月29日のロッテ戦を観に行った。

 完敗だった。ロッテ先発の小島和哉に8回まで無得点。初回1死から上川畑大悟と清宮幸太郎の連打で好機をつかんだが、万波中正と郡司裕也という期待の右打者が連続三振に倒れた。ここが全てだった気がする。

 それでも、左翼席を中心にファンはぎっしり。ふた昔前にはとても考えられなかった光景だ。そこから聞こえてきた応援に、ある選手のことを思い出した。

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 ドドドドドドドン ま・つ・も・と
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 ドラムの音に乗せたコールは、それこそ後楽園球場が本拠地だった頃から、ファイターズの主力打者に向けられる応援だ。怪我に泣き続けた松本剛が、そんな扱いを受けるようになったのが嬉しくなる一方で、今のファイターズに足りないものを感じたのだ。思い出したのは、一昨年の夏亡くなった大島康徳・元監督のこと。東京ドームができたばかりの頃、大島もこのコールで応援されていた。

 中日の主力打者だった大島がファイターズにやってきたのは1988年、すでに37歳だった。当時は広いと言われていた東京ドームでどこまでやれるかと思っていたら、打線の中心にどっかりと座ってくれた。1990年には通算2000安打を達成。当時、史上最も遅い記録達成だったのは、中日での若き日を、主に代打屋として過ごしたこの人らしかった。

 40歳を過ぎてからは代打稼業に戻って行った。43歳だった1994年のゴールデンウィーク、雨の西武球場で放った代打逆転満塁弾は語り草。この年打率.323を残したのだから恐れ入る。低迷したこのシーズン、終盤の大島の打席を楽しみにスタンドへ通っていたファンも多いと思う。

 そして、チームに残したものが打席での数字以上に大きかったと知ったのは、だいぶ後のことだった。

日本ハム監督時代の大島康徳さん ©時事通信社

「大島さんが教えてくれたんだよ」という技術のなんと多いことか

 当時、左投手キラーとして鳴らした五十嵐信一は、オリックスの「遅球の魔術師」星野伸之が大のお得意様だった。後に星野が「8割くらい打たれた気がする」と言っていたことからも、その嫌われぶりがわかる。なぜそんなに打てたのか聞いてみると「球種の捨て方を、大島さんが教えてくれたんだよ」。決してレギュラーではなかった五十嵐は37歳まで現役を続けた。生き残るための一芸を授けてくれたのが、同じ道を歩いてきた大島だった。

 また大島が移籍してきたころ、強肩強打で売り出し中の若手だった田中幸雄は、逆方向へ強い打球を打つ方法を教わったという。

「アウトコースのボールを前でさばくんじゃなく、右足の前まで引き付けて全力で一、二塁間に打てるようにしろって言われて、キャンプの間ずっとその練習をしていたことがありましたね。当てに行くんじゃなくて、反対に全力で打てるように。体のキレがものすごく必要だったんですけど、そのうちできるようになりましたね」

「大島さんが教えてくれた」「大島さんに指摘された」という声は、他にも当時の在籍選手からたくさん聞いた。ベテラン選手が、自分の「飯のタネ」を下の世代に伝えていく文化が、確かにあったのだ。

 今のファイターズには、それが見えなくなっている。はっきり残っていたのは、稲葉篤紀や金子誠が現役だった頃までか。稲葉はキャンプでよく、中田翔とロングティー対決をしていた。2人で真剣に喜び、悔しがりながらいつまでも続く放物線の応酬は、キャンプの名物でもあった。ベテランとなった稲葉に、中田はなかなか勝てなかった。夜間練習に稲葉が出てくると、西川遥輝や谷口雄也が質問を浴びせていた。いい光景だなと思って見ていた。

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