「原口さんは本当にすごい」

 糸原健斗は戸惑っていた。「本当に難しいです」。まだ開幕前だった。オープン戦を経て代打稼業に足を踏み入れ始めた30歳は想像以上に変わった環境、目の前の景色に愕然としていた。昨年も122試合で先発出場するなど主に二塁、三塁のレギュラー格としてスターティングラインナップに名を連ねる日がシーズンの半分以上を占めていた。元々「準備」を大切にしてきた選手。本拠地のナイターでも午前中には球場入りして18時に合わせてベストコンディションを作り上げてきた。

 だが、代打となれば話は変わってくる。「いつ出番がやってくるかも分からないし、1打席も回ってこない日だってある。打席に立っても1球で終わってしまう日だってあるので」。

 これまで毎試合3~4打席に立っていた状況からは完全な“別世界”がプロ7年目の仕事場になった。たとえ出番がやってきたとしても、送り出されるのはチームの好機や試合終盤の局面。マウンドに立っているのは当然、ギアを上げてきた先発投手やセットアッパー、クローザーという難敵たちだ。かつてはOBの八木裕氏や桧山進次郎氏が“代打の神様”として君臨していたが「代打で打率3割とかすごすぎる」と、その凄みをあらためて実感する日々だった。

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糸原健斗 ©時事通信社

 幸運だったのは、近くに原口文仁という最高のお手本がいたことだ。昨年は代打で打率.333、一昨年も打席に立った51試合はすべて代打として起用。岡田彰布監督も開幕前の時点で「右の原口、左は糸原」と左右の“切り札”として、ともに期待をかけられた。自然と背番号94を目で追うようになった。

「原口さんは本当にすごい」

 その背中は思っていた以上に偉大で「準備」の大切さをあらためて思い知らされた。だから、糸原も昨年までのルーティンは変えなかった。午前中から甲子園に姿を見せて外野をランニング。遠征先でも朝から精力的にウエートトレーニングに取り組んだ。それでも、その日の出番は確約されていない。寸分の狂いもなく行ってきた準備が無駄になることだってある。その分“次の1打席”への思いを強くすることで日々を過ごしてきた。