『栄光の架橋』が流れる甲子園で、私の脳裏をよぎったこと
「ピッチャー岩崎」コールより少し先だっただろうか。ゆずの『栄光の架橋』が阪神甲子園球場に響き渡ると、あの日の沖縄の夜が一気に蘇ってきた。気づけばスピーカーから流れるメロディは4万人を超える大合唱に変わり、その間嗚咽が止まらなかった。2023年9月14日。甲子園の内野席で、阪神タイガースとの9年間のいろいろなシーンが走馬灯のように駆け巡った。
あの日の沖縄の夜とは2017年2月初旬。キャンプ取材のため、私は沖縄に入った。確か第1クールの最後くらいだったと記憶している。私にとってはその日がキャンプインのため、最後の選手が練習を終えて宿舎に帰るまで球場で取材をする意気込みだった。この年は金本知憲監督2年目のシーズン。若手選手は宿舎に戻ってからも夜間練習を行っていた。
一人、また一人と宜野座の球場を後にする。大勢いる虎番記者も片手に収まるほどになった。今練習を切り上げて宿舎に戻っても、夜間練習までの間に夕食を摂る時間があるかどうか。そんな中、必死に汗を流している選手がいた。横田慎太郎さんだった。まだキャンプは始まったばかりにも関わらず、とても苦しそうだった。なぜだろう。私は広報に「もう少し残って話を聞いていいですか」とお願いした。沖縄の空は暗くなり始めていた。車に乗る横田さんに「どうしてこんな時間まで? 何かうまくいっていないのですか?」と尋ねた。今思えば話すのも辛かったはずだ。横田さんは「もう全部、全部です。全部ダメなんです。もっともっと頑張らないと」。何かに迫られているような形相だった。
2月11日。各社のニュースに“横田、頭痛で帰阪”の文字が並んだ。ただの頭痛でないことくらい簡単にわかる。その後は悲しいニュースばかりが耳に入ることになった。
「土佐ロイのソフトクリーム食べてみてください! めちゃくちゃおいしいんで!」
横田さんがとびっきりの笑顔で教えてくれた、高知県のロイヤルホテル土佐で食べられるソフトクリーム。あの後、足を運んで食べてみたが感想は伝えられなかった。「横田君、めちゃくちゃおいしかったよ」。
ルーキーの森下翔太選手はこの日3安打の大活躍。春先の悔しさを聞いていたので、虎党の大きな拍手に包まれる姿はとてもうれしく映った。出会いは1月に鳴尾浜でルーキーを対象に実施された新人研修だった。ピラティス講師としてお声がけいただき、3日間お世話になった。最終日はピラティスを行った後にバッティング練習。その後森下選手は「足に根っこが生えたみたいで、すごくバッティングがよかったです」と表現してくれた。春季キャンプでも沖縄県具志川で1クールピラティス指導をさせてもらい、その後オープン戦が始まってもピラティスを継続してくれていた。オープン戦やシーズン序盤は、レッスンの翌日に本塁打を放つなど、ピラティスによる身体の動かしやすさを感じてくれていた。しかし、遠征が始まるとなかなか時間が作れない。連日ファンに見守られる中での試合に、学生の時にはなかった疲労はもちろんあったはずだ。
4月中旬、不振から二軍での生活となり、久々にピラティスレッスンに来てくれた。「バー外(メンバー外)ってことなんで。めっちゃ悔しい」。東海大相模高校でも1年夏から4番に座り、中央大ではレギュラーどころか1年生ながら日米野球の日本代表にも選出された。強豪チームでも常に試合に出続け、ベンチ入りメンバーを外れる経験などほとんどなかった森下選手にとって、寮の自室で見るナイター中継が発奮材料となった。経歴は華やかだが、野球小僧という言葉がぴったりな森下選手。具志川野球場で顔が泥だらけのまま昼食をかきこんでいた姿が印象的なのだが、悔しさはとにかく野球にぶつけた。
気づけば1割台だった打率も徐々に上向き、なんといっても勝利打点をあげてお立ち台に立つ機会も増えた。優勝マジックが減りA.R.Eへの機運が高まっても調子は落ちず、この日も超満員のファンを喜ばせた。私はもはや勝手に親心。「よかったね~」。ひとしおの喜びを噛みしめながら言葉が漏れた。