墜落した場所は標高3700メートルの極寒地帯、食料はほとんどゼロ、救助隊がやってくる見込みもなし……1972年、学生たちを乗せるチャーター機がアンデス山脈に墜落した「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」とはどんなものだったのか? そして、生存者たちが生き残るために取った行動とは?
作家の鈴木博毅氏が古今東西の名著をもとに「正しいリーダーのあり方」を紐解いた、新刊『30の名著とたどる リーダー論の3000年史』(日経BP)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
◆◆◆
仲間との楽しいラグビー遠征が突然悲劇のどん底に
1972年の冬、ある凄絶な事件が起きました。南米のアンデス山脈で、学生のラグビー選手団とその家族や知人を乗せた飛行機が墜落したのです。
この旅行はチリのサンティアゴで親善試合を行うためのものでした。しかし悪天候のため航路を誤り、予定のルートを大きく外れて雪山に衝突したのです。
友人や家族を乗せた楽しいフライトのはずが、墜落の際に45名中12名が死亡、その後も負傷者と体力を失った者から次々に死が訪れる悲劇に変わりました。
事故当時、アンデスは天候が非常に悪い時期だったため、多くの若者が遭難した大事故にもかかわらず、救助隊はついに墜落機を発見できませんでした(副操縦士は墜落の直前、管制との通信でクリコを通過したと報告したが、実際はまったく違う場所だった)。
乗務員はほぼ全員が墜落時に死亡、ラグビーチームの若者たちは厳寒の雪山に取り残され、食料の一切ない地獄のような状況下でサバイバルを強いられていきます。
生存不可能な雪山でどう生き延びるか
翼をもがれて墜落した飛行機は、かろうじてシェルターのような役割を果たし、生き残った若者たちは、床に寝そべって夜を過ごしました。しかし、高山の恐ろしいほどの寒さに苛まれます。
飛行機の高度計から、彼らは海抜2100メートルほどにいると考えていましたが、高度計は壊れており、実際は3700メートルもの高さにいたのです。日本でいえば、富士山の頂上近くにいたようなものです。
「一瞬、一瞬、さまざまな形で、私たちは苦しんでいたが、最も大きな苦しみの基は、いつも変わらず寒気だった。私たちの体は、決して厳しい寒さに適応しなかった――人間の体には無理なのだ」(『アンデスの奇蹟』海津正彦訳、山と溪谷社より)