7年半在籍し、慣れ親しんだ横浜からシーズン中に急遽東北楽天にトレード移籍となった藤田一也。横浜時代、地道に築き上げてきたチームでの地位、人間関係は全てリセットされることとなった。当時、まだ実績の乏しかった藤田にとって、新しいチームの中で存在感を確立していくことは容易なことではなかった。
「ルーキーの時と、おんなじ気持ち。選手も、裏方さんの名前も、全然分からんし。横浜ではある程度自分の立ち位置作ってこれたけど、また、イチからやなぁって。どうやって、このチームでポジション作っていこうかなっていう感じやった」
のちに楽天で押しも押されもせぬレギュラーとなるが、移籍当時は自身のポジション取りに必死だった。守備固めでも、なんでもいい。とにかくこのチームで一軍に残ることを最優先に考えていた。シーズン途中の移籍であったが、なんとか実力を発揮し、一軍に残った。当時の楽天の監督は、故・星野仙一氏。守備を中心としたチームづくりをする同監督にとって、藤田の守備力は重要なピースだった。翌13年、藤田は二塁手で開幕スタメンを勝ち取る。
脱・自衛隊
「星野さんに、『オマエは打たんでもいいから、とにかく守れ』って言われた。それは、俺にとってはものすごいチャンスに思えた」
移籍早々、ここでも自衛隊としての役割を与えられるが、今回は少し意味合いが違う。明らかに、その守備力を“優勝に必要な戦力”として評価されていた。監督からの期待を意気に感じ、磨き上げられた藤田の守備力は、杜の都で躍動する。それは、「藤田の守備は10勝分以上の価値がある」と星野氏に言わしめるほどに、一際目立った。そして、守備からチャンスを掴んだ藤田に、思いもよらぬ副産物が舞い込む。打撃力が飛躍的に向上したのである。
「横浜の時は、とにかく目の前の打席で結果を出すことを求められた。でも、楽天では“打たんでいい”と言われている。初めて、打席の中で考える余裕が生まれた。そうすると急に視野が広くなって、『この打席で何をすればいいのか?』ということを、一球ごとに考えられるようになった」
これまで、ランナー一塁で打席に立ち、ヒットエンドランのサインが出れば、とにかくゴロを転がすことしか頭になかった。しかし、「この展開ではセカンドがベースに入るのか、それともショートがベースに入るのか」を冷静に考え始めた。そうなれば、ただゴロを転がすだけではなく、「ショートゴロを打てば、自分もヒットで塁に残ることが出来る」と考えるようになる。
「だんだん、『ショートゴロを打つ打ち方って、どうやるんやろう?』と考えるようになって、次に一二塁間を抜くには、となる。打ち方が先じゃなくて、『あそこに打ちたい』が先にきて、その後に、『どうやって打つか?』と考える。それは、今までになかった考え方やったし、そうやって考えることで、どんどん打ち方が変わっていった」
打席の中での思考のレベルは、以前では考えられないほどに上がっていく。状況に応じて、「この場面での最低限の仕事、100点の仕事、120点の仕事」が瞬時に頭の中で計算され、それがカウントごとに変わり、相手の守備体系、バッテリーの配球を読みながら自在に変化させられるようになった。この打席の最も重要な任務が“フォアボールを選ぶこと”と見抜けば、徹底的にファウルを打ち続けて塁に出た。
「エンドランのサインが出て、ゴロを転がしてランナーを進めても、プロとして考えれば自分の打率は下がる。あくまでも、ベンチの指令に応えつつ、自分の結果も出す。失敗しても、最低限の仕事は遂行する。あとは、考えたように打てるように練習する。そうやって取り組んだら、どんどん野球が楽しくなっていった」
もう、藤田を自衛隊と呼ぶ者はいなくなった。優勝するチームにおいて、誰もが認める、欠かすことのできないレギュラーとなっていた。
優勝チームの一員として
「あの頃の楽天は、誰かがミスしても、必ず誰かがカバーした。だから、ミスがミスじゃないようになっていく。本当に、強いチームだった。というか、いいチームメンバーやった」
思えば、藤田は強いチームにいた経験がなかった。横浜時代は、いわゆる暗黒時代と呼ばれ、最下位が定位置。強いチームで野球をすることは、全てが新鮮だった。
「たとえば、初回に3点取られると、『あぁ、今日もダメか……』という空気が出る。それが、そのままズルズル行ってしまうのが普通やった。でも、当時の楽天はジワジワ差を縮めていって、途中から『勝てる!』という雰囲気に変わる。常に、毎日、誰かがそういう雰囲気にしていった」
優勝経験のない若いチームにとって、何度も優勝に導いた闘将・星野仙一氏の存在は、絶大だった。その力を、藤田はこう振り返る。
「スイッチの入れ方が、抜群にうまかった。そして何より、流れを見極める力がすごかった。シーズンにおいて、中だるみが起こる直前に、チームを引き締める一言を放つ。時には、選手を全員交代させるような起用をして、プレッシャーをかける。ミーティングで話すことは滅多にないのに、監督のメッセージは常に伝わっていた」
“勝つ”ということにおいて一歩も引かないその姿勢は、何かを語るより雄弁だった。13年、東北楽天ゴールデンイーグルスは、創設以来の初優勝を飾り、日本シリーズを制した。
「優勝した時は、ただ“優勝したい”と思っていたわけじゃなかった。“このメンバーで”優勝したい。そんな想いが強かった。それは、不思議な感覚やった」
そこに、一軍に定着することだけを考え、吐き気を我慢しながら球場に向かい、自衛隊と呼ばれていたかつての横浜時代の藤田の姿はなかった。優勝だけを考え、もはやチームに欠かすことのできない最重要のピースとして、グラウンドに立っていた。