颯爽とした様子で田中健二朗がマウンドに登場した。その瞬間、すべてを悟るしかなかった。残暑厳しい秋の日。まだ陽光のまぶしい時間だったが、あたりの風景がセピア色へと染まっていくように感じられた。
10月1日に横須賀スタジアムで行われたロッテとのファーム最終戦。この日、ほぼ同時刻に横浜スタジアムでは、本拠地最後の試合が行われていた。普段からベイスターズを追っている立場からすれば、2位争いをする一軍を取材にハマスタへ行くべきなのだが、足は自然と横須賀へと向かった。
確かめなければいけない。目に焼き付けなければいけない――。
16年目の今季、田中は足の故障もあって出遅れたが、6月末に一軍に昇格すると11試合に登板し、1ホールドを挙げた。9月11日に登録抹消されるも、ブルペンの左腕が不足していることを考えれば、シーズン最終盤に経験豊かな田中が苦しいチームを助けてくれるだろうと考えていた。
しかし田中は、その後一軍に昇格することはなく、加えて故障しているわけでもないのにファームで登板することはなかった。
34歳の今、これはなにを意味するのか。過去の事例を鑑みれば“残された時間は少ない”ということだ。ファーム最終戦は、人間模様が交差する試合。大一番を迎えていたハマスタではなく、それを察して横須賀に足を運んだファンもきっと多かったはずだ。
「先のことはわからないけど、できれば40歳ぐらいまで投げたいですよね」
ふと田中の言葉を思い出した。2021年シーズン終盤、トミー・ジョン手術を経て3年ぶりに一軍登板した後、田中はそう言っていた。長いリハビリ期間を経て、投げる喜びを改めて噛みしめていた。真新しくなった左肘でこれからも投げ続けたい。あの言葉から、まだ2年しか経っていない。
9回表が始まる前、ブルペンの前に長い花道が作られた。若手の投手や野手に加え、この前の回で登板した田中と同学年の平田真吾や、ファームで調整中だった三嶋一輝や山﨑康晃の姿があった。列を作った仲間に見守られながら、田中は駆け出すようにマウンドへ向かった。場内に田中の名がコールされると観衆は一瞬どよめいたが、次の瞬間、万雷の拍手が沸き上がった。そして「ケンジロ~!」と叫ぶファン声が絶えることなくスタジアムに響き渡っていた。
「毎年クビになるんじゃないかと思いながらやっていたんですよ」
田中と初めてじっくりと言葉を交わしたのは2015年のことだ。センバツで優勝投手となり、2007年の高校生ドラフト1位で入団した田中だったが、なかなか結果が出ず、この前年まで苦しい時間を過ごしていた。そして8年目、田中は開幕からリリーバーとしてブレイクを果たし、オールスターゲームに初選出された。ファン投票では中継ぎ部門で一時は1位になることもあった(結果は2位)。
「そんな風に自分のことを見てくれている人がいると思うと、とてもうれしかったですね。ファンの方のためにも、また頑張ろうって」
インタビューを受ける25歳の田中は、初々しい笑顔を見せてくれた。マウンド上では強面だが、グラウンドを離れると“気さくなあんちゃん”そのものだった。「やっと結果が出ましたね」と伝えると、田中は苦笑した。
「やっとですね。じつは3年ぐらい前から毎年クビになるんじゃないかと思いながらやっていたんですよ。終わっちゃうな、と思ったのは一度や二度のことじゃないんです」
成果を挙げられなければ去らなければいけない世界。若いときから田中は、その危機と背中合わせで過ごしていた。
「まあ、左(腕)だったから助かっていた部分もあると思うんですよね……」
そう自虐的に言ったかと思うと、田中は目に力を入れて続けた。
「まわりがどうこう言おうが、自分に力がなかったらそれまで。だから悔いが残らないように、腹をくくってやるしかない。“打てるものなら打ってみろ”じゃないけど、知らねえよって感じで、吹っ切って攻めていきたいですね」
この強気な姿勢こそが田中の真骨頂。ピンチであっても自慢のカーブを武器に大胆に攻めるスタイルは、観る者の心を震わせた。そして田中は、翌2016年から2年連続60試合登板を果たすなど、リリーバーとしての地位を固めていった。
ようやく台頭し、流れに乗ったかと思われた野球人生。だが、思わぬ出来事が田中を襲う。