「しがみつける余地があるのならば、しがみついていきたいだけですよ」
2019年8月、田中はトミー・ジョン手術を受けることになった。まもなく30歳を迎えるタイミング、ぎりぎりの決断だった。
「これまで肘を痛めたことがなくて……。PRP(保存治療)とかやったんですけど、よくならないし、これはもう終わりかなって。ただ僕はピッチャーですし、投げられなくなって野球人生が終わってしまうのはどうかなって思って、手術を受けさせてもらいました」
田中の取材を重ねてきて思うのは、いい意味で“あきらめが悪い”ところである。
「野球しかやってこなかった人間ですし、しがみつける余地があるのならば、しがみついていきたいだけですよ」
リハビリは困難を極めた。ちょうどコロナ禍もあって、思うようにプログラムが進まず「何度も心が折れかけて……いや、折れていたのかもしれない」と、のちに笑って話してくれたが、一筋縄ではいかなかったようだ。
「ただ今後もし同じような手術をする選手が現れたとき、前例ではないですけど僕がどんな経緯で手術をし、リハビリをし、いかに復帰したかを伝える役目を担っていると思っているんです」
とくに球団から要望されてはいなかったが、先駆者としての務めがあると田中は考えていた。結果、のちにトミー・ジョン手術を受けた東克樹や平良拳太郎は、田中という前例のおかげでスムーズにリハビリをこなし、順調に復帰を果たしている。
どん底から立ち上がる胆力。どんな状況にあっても黙々と目標に向かい努力する姿は、若い選手たちにいい影響を与えている。とくに厳しい生存競争を強いられる育成出身の石川達也や宮城滝太は、尊敬する選手に田中の名を挙げ、その背中を見て学び、一軍の戦力に成長している。
誰に聞いても信頼を得ていた田中は、ベイスターズにとって掛け替えのない財産であることは間違いない。だが、別の道を歩むときが来たようだ。
今は次に向けてオラついている田中らしい姿が見られただけで十分だった
最終戦のマウンドで、田中は思いの丈をぶつけるように躍動した。打者3人を相手に2三振。140キロ台半ばの強いストレートが印象的だった。そして意外だったのは時折、微笑みを見せていたことだ。えっ、こんなに楽しそうに投げている田中を見たのは初めてかもしれない。その吹っ切れたような様子を見たとき、セピア色に染まっていた風景に、鮮やかな色彩が戻ったような気がした。やる気だな。行くところまで行ってもらいたい。もう、そう思うしかなかった。
試合後、取材をするためにミックスゾーンへ行くと、報道陣はわたしを含め二人しかいなかった。重要な試合がハマスタであるので仕方がないが、ちょっと寂しいな……。
人影が見えたと思ったら山﨑康晃だった。こちらの顔を見るなり「あれっ、今日はハマスタじゃないんですか?」と言った。しかし次の瞬間、事情を察したようだ。
「この時期は寂しいですよね……。健二朗さんにはお世話になりっぱなしですよ。とくに2年目(2016年)、僕がぜんぜんダメだった時期に本当に支えてくれて……。感謝しかないですね」
そして、しばらくすると田中が姿を現した。決して短くはない付き合い。野球以外のことも含め、今までいろんな話をしてきたが、この瞬間だけは、なんて声を掛けたらいいのかわからなかった。感情の置きどころが見つからない。
なぜか咄嗟に、わたしは田中に向けてスッと右拳を突き出していた。試合終わりの選手に対し、こんなことをしたことは一度もなかった。
すると田中はニヤッと笑って、左拳でコンッとグータッチをしてくれた。そして明るく言うのだ。
「いいボール、行ってたでしょ?」
うん、いいボールでしたね。
「もうちょっとやれると思っているんですよ。先のことはなにも決まっていないけど、まだ投げたいなって」
なにか訊かなきゃいけないと思っていたが、もうどうでもいいように思えた。湿っぽい話をするよりも、今は次に向けてオラついている田中らしい姿が見られただけで十分だった。
こちらが「おつかれさまでした。本当ありがとう」と伝えると、田中は小さく頷いた。
「はい。こちらこそありがとうございました。また、よろしくお願いします!」
そう言うと力強い足取りで、田中はDOCK(ファーム施設)へ去っていった。
この2日後、球団から田中とは来季契約を更新しないことが発表された。田中ほどの選手ならば、きっと引退の花道も、その後のポストも用意されていたことだろう。だが、田中は腕を振ることを選択した。一度きりの人生、それでいいと思う。高卒の生え抜き投手として、紆余曲折あったベイスターズの16年間。あのマウンドさばき、あの火消し、あの牽制アウト、名シーンは枚挙に暇はなく、その雄姿を決して忘れることはない。
だからまた逢う日まで、健二朗さん、お元気で――。
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