話者のひとりはカオス理論の確立者であり、複雑系科学の第一人者の数学者、物理学者の津田一郎。またもうひとりは、「編集工学」を掲げ、情報を生む世界観を追究してきた博覧強記の松岡正剛。1980年代初頭、新しい生命科学と数学が生まれつつある胎動に胸躍らせていた松岡氏は、津田氏と出会い、科学に物語性を接続するその才に触れ、心打たれたという。
ここでは、両名の初となる対話集『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』(文春新書)を一部抜粋して紹介する。
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「言語の起源」の謎
松岡 世界中の言語はバベルの塔が崩れて以降、各地各様のローカルな言葉が派生してきたわけですが、今日地球上に残っているものでも3000以上の言語があって、数世紀前は1万以上もの言語が林立していたわけです。メインになる言語と「消滅していく言語」との攻防がたえず局地的に繰り返される中で、ではなぜ言語はこんなにもたくさんあるのかということは、あいかわらず謎なんですね。もともとヒトの群れの中で言葉が交わされるようになったころからの謎でしょう。それでも「言語の起源」をめぐっては、ルソーをはじめ、グリム兄弟やフンボルト兄弟のような言語文化の研究者が出てきて、いくつかの仮説が並列してきました。
地球上にはたくさんの言語があるけれども、もとの起源は一つの言語であったという説。人類学的な見方で、アフリカ大陸からルーシー(アウストラロピテクス)たちが分散移動していくにつれて、農耕や遊牧などの生活形態やさまざまな風土や気候条件によって身体の発音機構も変わったので、皮膚や目の色が変わるように言語も変化していったのではないかという説。大きくはチョムスキーの生得説とピアジェの獲得説に分かれるんですが、言語は髪や皮膚以前の問題、すなわち脳や進化の奥にあるものが出てきて言語になったと考える説、あらゆる言語に対して普遍的な文法があると考える説。いろいろの主張があった。そこに、言語以前の「認知」に焦点を当てる見方が加わってきた。認知科学や認知言語学です。ここでは、「脳」と「心」と「言語」を同時に内包するシステムが機能していると見立てて、コンピュータの中でモデル化する試みも出てきた。フォーダーやミンスキーのような人気のある仮説も出てきました。一言でいえば「脳」と「心」と「言語」にはこれらを構成したり代理したりする、ユニットやフレームやエージェントがあるんじゃないかというものです。
しかし、こうした主要な説を破るような言語観もある。ぼくはわりに若い時期に、空海の「声字実相義」という考え方に出会いました。それは、声になっているものと文字になっているものは分けられなくて、われわれの頭や身体の中には「内声の文字」がすでにひそんでいて、それが躍動しているという考えです。空海の言う「内声の文字」はプシュケーとかプラーナみたいもので、ふだんは蕾(スポータ)の状態になっている。そういういまにもはち切れようとしているものが「内声の文字」としてあって、それが弾けて外に出ていくんだけれど、もともとその奥には蕾に秘められたマントラや言霊のようなものがあって、それはのちのちの変化の可能性をもちながらも分節化されていない基体としてあるというんですね。
空海は真言宗を興したので、マントラや言霊はのちに「真言」というふうにまとめられてしまうんですが、なかなか刺激的でした。