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大越さんの人生をさらに変えた「霧幻峡の渡し」

 大越さんの派遣先は7箇所もあった。ガソリンスタンド、旅館、キャンプ場、建設会社、特産の天然炭酸水を採取してボトリングする工場、温泉保養施設、そして金山町観光物産協会が運営する「霧幻峡の渡し」の船頭だ。

「金山町の何でも屋です。大好きな町のいろんな場所で働けて、充実感がありました」と大越さんは顔をほころばせる。

 この派遣労働が大越さんの人生をさらに変えた。

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 きっかけは「霧幻峡の渡し」だった。

 この「渡し」を発案したのは星さんだ。

 星さんは只見川沿いの三更(みふけ)という集落の出身だ。国道の対岸にあり、かつて三更に住んでいた人は誰もが渡し舟を操っていた。ところが1964年、大規模な土砂崩れが起きた。このため10軒の集落は集団移転を余儀なくされ、うち6軒が500mほど下流にまとまって家を再建した。そのうちの1軒が星さん宅である。

 以後、渡し舟は絶えた。だが、過疎化が進む奥会津に活気を取り戻そうと活動している星さんが中心になり、2010年に観光用に復活させた。川面に霧が発生すると幻想的になることから「霧幻峡の渡し」と名付けた。

 その後は、金山町観光物産協会が事業を引き継ぎ、国道側の船着き場から45分間で周遊するコースと、対岸で廃村になった三更に上陸して探索するコースを設けている。「三更は300年続いた集落で、古民家や観音様、お地蔵様が残っています。歩くとまるでタイムスリップしたような感覚に陥りますよ」と星さんは話す。

 大越さんは、その船頭の一人として派遣されたのだった。

渡し舟の櫂をこぐ大越智貴さん

2023年の5月から金山町観光物産協会の正職員として迎えられる

 協同組合に就職した2022年4月から現場で練習を始め、小型船舶の免許を取るなどして、6月に一人立ちした。

 この年、只見線に画期的なことがあった。不通となっていた会津川口-只見間が10月1日、被災から11年ぶりに運行再開されたのだ。

 ただ、地元の熱意だけでJRが腰を上げたわけではない。上下分離方式を導入して鉄路や駅舎などの鉄道施設は県に譲渡、JRは運行だけを担う形で、なんとか復旧にこぎつけた。

 それでも、沿線には極めて大きな効果があった。

 連日満員の観光客を乗せて走るようになったのである。会津若松駅からずっと座れない人も出る混雑ぶりで、「山手線並み」と評する人もいた。

 霧幻峡の渡しにも、大勢の客が押し寄せた。

 大越さんは派遣の8割が船頭への従事となり、2023年の5月からは金山町観光物産協会の正職員として迎えられた。4月から11月の渡し舟が運航する時期は、現場に張り付いて櫂をこぐことになったのである。他にも職員として只見線のガイドをするようになった。

 只見線の運行再開2年目の2023年は、一段と忙しくなった。霧幻峡の渡しに前年の2倍もの申し込みがあり、大越さんら船頭は昼食の時間以外はずっと舟をこいでいる状態だ。