小林秀雄の旧宅からは、市街地を超えて海が見える。水平線が凸凹しているのは、私の目のせいである。三日前に東大病院の眼科に行った。右の目がダメだということがしっかり判明した。子どものころから、右目がよく見えていなかった。双眼の実体顕微鏡を使っても、片目しか使わないから双眼の意味がない。望遠鏡やオペラグラスも同じ。立体視ができないのである。
そういえば、若い時から立体視が苦手だったなあと思い当たる。今頃わかっても打つ手がないが、これも人生の「仕方がない」のうちであろう。
現代人は「仕方がない」が苦手である。何事も思うようになると、なんとなく思っている風情である。コロナに関する議論をテレビで聞いていると、しみじみそう思う。ああすればよかったじゃないか、こうすればいいだろう。ほとんどの人が沈む夕日を扇で招き上げたという平清盛みたいになっている。「ああすれば、こうなる」というのは、いわゆるシミュレーションで、ヒトの意識がもっとも得意とする能力である。それがAIの発達を生んだ。これは右に述べてきたような私の人生観と合わない。
私の人生観なんか、どうでもいいが、世間がシミュレーション全盛の方向に進んでいくときに、人生をどう送ればいいのか。その世界では私の人生はおそらくノイズであり、それならどれだけのノイズが許容される世界なのかが問題となる。
そんなことを考えていると、それも一種のシミュレーションじゃないかと思い、面倒くさいなあ、AIに考えてもらいたい、と思ったりする。やっぱり話はいまではAIに尽きるのである。
日本の若者の死因のトップは「自殺」
「人生論」などというヘンな主題になったのは、NHKの仕事がらみで、子どもの質問に答えるというのを引き受けたからで、十歳の小学生が「良い人生とは」という質問をしてきたのである。
もう一つは十代から三十代までの日本の若者の死因のトップが自殺だと知ったからである。人生ではなくて、「生き方」の問題だろうと、とりあえず回答したが、「生き方」の指南は私の仕事ではない。古来から宗教家の仕事に決まっている。宗教は衰退しているといわれるが、AIが宗教に変わったという意見もある。未来をもっぱらAIに託すからであろう。AIは碁将棋に勝つだけではない。なんにでも勝つのである。
自殺が多いのは、人生指南のニーズが高いであろうことを示唆している。日本でいうなら、コンビニより多いとされるお寺の前途は洋々である。若者が死にたがる理由は複雑であろう。とりあえず打つ手は思いつかない。