「べつに私は仏教徒ではない。でも外国の書類に宗教を書くときは、仏教徒と書く」

 養老孟司さんはなぜほかのどの宗教よりも、仏教に信頼を置くのか? 日本を代表する知性・養老さんの過去20年間に執筆したエッセイを選りすぐった新刊『生きるとはどういうことか』(筑摩書房)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

なぜほかのどの宗教よりも、養老孟司さんは仏教に信頼を置くのか? ©文藝春秋

◆◆◆

ADVERTISEMENT

人はなぜ生きるのか?

 人はなぜ生きるか。こう訊かれると、すぐにいいたくなる。そりゃ、人によって違うでしょうが。

 お金のため、名誉のため、権力のため。人生の動機はこれに尽きる。そう考える人もある。それなら男女はどうなる、家族はどうなる。好きな女のために生きる。もうだれも読まないだろうが、井上靖の「射程」はそういう男を描いている。若いころ、この本にすっかり釣り込まれて読んだから、電車で降りるはずの駅を乗り越した。

 家族のためというなら、それは生きるためというより、食うため、食わせるためじゃないか。食うのは生きるためで、それなら生きるのは、食うためではない。

 そんなこというけど、あたしゃ貧乏人だし、社会的地位もない。金と名誉と権力には縁がない。自分ではそう思っている人も、じつは金・名誉・権力の例外ではない。そういう意見もある。貧乏人の子だくさんとは、そのことだという。それを説明する。

 突き詰めれば、人間の欲は権力欲である。気に入ろうが、気に入るまいが、とりあえずここではそう考えることにする。金があれば、それなりに「思うようにできる」。名誉があれば、それなりに人を「思うようにできる」。ともあれ他人が自分の意見に耳を傾けてくれるに違いないからである。権力があれば、むろんのことである。

 貧乏人はどうか。どれもない。ところが一つ、残された手段がある。子どもである。子どもにとっては、親は絶対者に近い。父親が変人で、子ども嫌いだったため、赤ん坊のときから中学生の年齢になるまで、一部屋に閉じ込められ、縛られていた子どもがあった。その子はそれでも後に「母が恋しい」と書いた。すべての権力に縁がないなら、人は子どもをつくる。だから貧乏人の子だくさんなのだ、と。