《私は、女優が大好き、仕事が命、というタイプではないんです。もちろん、自分を通して表現できる素晴らしい職業に巡り合えたとは感じています。でも、私にとって、昔も今も、仕事は自分のすべてをささげる対象ではない。だから、結婚したときは好きな人の食事を作ることにすごく喜びを感じたし、子育ても楽しかった。パートナーが、女優をやめろ、と言ってくれたら、いつでもやめられた。実はその言葉を待っていたくらい(笑)》(『クロワッサン』2011年1月10日号)
義父役を相手に…話題を呼んだ背徳のヌードシーン
映画界の人たちも女優・倍賞美津子を放ってはおかなかった。黒澤明監督の『影武者』(1980年)のような大作のほか、今村昌平監督などの独立プロの制作する映画からも声がかかり、多数出演した。1979年、実在の殺人犯をモデルにした今村監督の『復讐するは我にあり』(松竹・今村プロダクション製作)では、緒形拳演じる主人公の妻を演じた。劇中には、義父役の三國連太郎相手のヌードシーンもあったが、台本があまりに面白かったので、そんなシーンがあることなど忘れて出演を承諾する。すると、それをマスコミが夫の猪木と絡めて面白おかしく騒ぎ立てた。
後年、彼女は《そりゃあね、亭主だったら自分の女房がスクリーンで裸を見せるなんてイヤにきまってるんですよ。だけど、彼なりに考えてOKを出したわけでしょ。そんな彼の男としての傷ついた心をね、面白半分でチクチク書きまくるってのは卑怯だと思いません? 私、そういうのって大嫌いなの。監督だって気を使ってくれて、亭主の方も自分なりの納得をして、そういうものが成り立って出来たものなのに、そこだけ面白おかしく騒ぎ立てるんだから》と、マスコミに苦言を呈している(『キネマ旬報』1983年9月上旬号)。
『復讐するは我にあり』での演技は高い評価を受け、ブルーリボン助演女優賞も受賞した。賞が決まったとき、彼女はまず、長いロケのあいだ家で留守番してくれた子供に「いつも我慢してくれて、ありがとね」と感謝を伝えた。同時に、自分が賞を獲ると、いつも世話をかけている家族や事務所の人などが喜んでくれるのだとわかり、賞をもらうのはいいことだと思ったという。後年、『恋文』(1985年)と『うなぎ』(1997年)で日本アカデミー賞を受賞したときも、賞金は自分をサポートしてくれた人たちと山分けしたとか。
離婚の決断
彼女が俳優業をやめずに来られたのは、作品をみんなでつくり上げる面白さを知っていたから、とも言えそうである。前出の今村昌平や、やはりその作品の常連だった森﨑東のほか、さまざまな監督と仕事をしてきたが、《製作費がなくみんなが苦労した作品でも、またそこに楽しみがあって、私も関係のないときは製作部になっちゃったりしてご飯を作ったりするとかって、すごく楽しいですよね》と、現場での共同作業の楽しさを語っている(『キネマ旬報』2009年5月下旬号)。
映画やドラマで活躍を続ける一方で、アントニオ猪木とは1987年に離婚する。倍賞は、何事も決断を下すのは自分だという信条から、このときも親きょうだいにさえ決めるまでは何も言わなかった。彼とは《好きで一緒になったんだから、そのあとどうこうって言うのは一切やめましょう》と約束して別れたという(『週刊文春』2001年10月25日号)。それから時間を経て、お互いに吹っ切れたのだろう、十数年後、ホテルでばったり遭遇した猪木と、《懐かしくてね、同窓会で同級生だった男の子と会ったっていう感じ》で、何人かで一緒にお茶を飲んだと明かしている(同上)。
昨年10月に猪木が亡くなったあと、今年3月に国技館で開かれたお別れの会には、倍賞とのあいだに生まれた娘の猪木寛子さんが参列した。