1ページ目から読む
2/4ページ目

結婚相手との「衝撃のなれそめ」

 新人時代から物怖じしなかったという話は、現在まで強くて勝ち気な女性を演じ続けてきた彼女のイメージとも合致する。のちの結婚相手との馴れ初めに際しても、こんなエピソードが残る。

 それは先述の松竹音楽舞踊学校の在学中にまでさかのぼる。学校は築地にあり、そこから有楽町方面へ向かうまでの道は校則で決められていた。もし、ほかの路地に入ったと上級生にバレたら、呼び出されて怒られたという。しかし、いけないと言われるとやりたくなるもの。その日も友達3人と帰りがけ、誰も見ていないと確かめたうえ、新橋のほうに道を曲がったところ、そこに高そうな白い国産車が停まっていた。てっきり外車だと勘違いした倍賞は「見栄張って」と思い、つい車を蹴っ飛ばしてしまったらしい。

アントニオ猪木との結婚式

 すると、乗っていた人に声をかけられ、「どこまで行くの?」と訊いてきた。彼女たちが新橋まで行くと答えると「乗ってけ」と言われ、最初は断るも、女が3人もいるから大丈夫だという気がして、結局乗せてもらう。車には、ゴム草履に海水パンツを穿いただけの大きな男性が乗っており、「君、倍賞千恵子に似てる」と言われたという。その人はプロレスラーの豊登だった。

ADVERTISEMENT

第一印象は「すごく食べる男」

 豊登は倍賞たちがSKDの生徒だと知ると、ごちそうすると言ってきた。学校時代、朝から晩まで練習していて彼女はいつもお腹が空いてしょうがなかっただけに、この誘いにも抗えなかった。そこでご相伴にあずかると、豊登が同席した青年を「この人、有望な若いレスラーで、ブラジルから来たんだよ」と紹介してくれた。その青年こそ、のちに彼女の夫となる、若き日のアントニオ猪木であった。ただし、倍賞は初対面時、彼の顔はまったく印象に残らず、ただ、ものすごく食べる男だなと思い、自分も負けじとたくさん食べたということだけが記憶に残ったという。

若き日の倍賞美津子 ©時事通信社

 それから数年後、倍賞は24歳で猪木と結婚する。彼女に言わせると、彼はまず大のプロレスファンだった母親に取り入ったのだという。当時まだ猪木は世間的には無名のレスラーで、彼女も会うまで知らなかった。だが、《うちのお母さんは知ってたのね。「有望な人なのよ、あの人は。美津子、付き合ったほうがいい」なんていっちゃうんだもの、お母さん》と、母親に勧められるがままに交際を始めたらしい(『週刊朝日』1980年7月18日号)。

 27歳のとき、猪木とのあいだに一女を儲けてからは、数年ほど俳優業から離れた。それでも、仕事に関して焦燥感は一切なかったという。これについて彼女はこう語っている。