現在放送中のNHKの朝ドラ『ブギウギ』では、ヒロインが「梅丸少女歌劇団」に入団して、仲間たちと切磋琢磨しながら青春を送るさまが描かれた。この歌劇団のモデルとなったのは大正末に大阪で結成された松竹楽劇部、のちの大阪松竹歌劇団(OSK、現・OSK日本歌劇団)である。松竹楽劇部は昭和に入ると東京にも進出し、こちらはやがて松竹少女歌劇団(SSK)となり、さらに戦後は松竹歌劇団(SKD)として存続するも1996年に解散した。

 きょう11月22日に77歳の誕生日を迎えた女優の倍賞美津子は、この東京のSKDから芸能界にデビューした。5歳上の姉・倍賞千恵子が先にSKDに入っており、その舞台を見るうち憧れを抱くと、中学を卒業後、自身も松竹音楽舞踊学校を経てSKDに入ったのである。音楽舞踊学校では先生から「お姉さんはよくできたのに……」などとよくくらべられ、反発もしたという。それでも、《姉が先にいてくれたおかげで、私は姉という高い目標を持って、そこに向かって行くことができました》と後年語っている(『文藝春秋』2009年8月号)。

©時事通信社

勝新太郎からの電話

 倍賞が音楽舞踊学校に入ったころ、姉は1961年に映画会社の松竹と契約すると、瞬く間に映画スターとなっていった。倍賞も20歳のときに姉妹で共演した『純情二重奏』(1967年)で映画デビューしたが、無理に出されて気が乗らないまま演じていたので、あまり記憶がないという。

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 そんな彼女が映画に本格的に進出することになったのは、1969年、五社英雄監督の『人斬り』に出演したのがきっかけだった。出演依頼はメインキャストの一人だった勝新太郎からで、劇場の楽屋に直接電話をかけてきたという。当時、倍賞はときどきテレビの仕事をしており、勝はそれを見て彼女のことを知ったらしい。

 電話を受けて勝と会い、もらった台本を読んだらすごく面白かったうえ、出演陣にはほかにも石原裕次郎、仲代達矢、そして作家の三島由紀夫と、超豪華な顔ぶれがそろっていた。若い彼女が飛びつくには十分で、松竹側には何も訊かず「出ます」と返事をし、SKDを退団すると同時に撮影にのぞむ。毎日、撮影所へ行くのが楽しくて仕方がなかったという。

倍賞千恵子(左)と倍賞美津子(右)姉妹(1964年) ©文藝春秋

 もっとも、五社監督の記憶では、《ああいう連中と一緒だと普通の新人なら、「自分がこんな大スターと仕事ができるなんて」と喜び勇むんだけど、美っちゃん[引用者注:倍賞のこと]は、「そうね、まあ、どうでもいいわ」みたいな感じで、ふてえ[引用者注:原文には傍点]態度なんだよ(笑)》というから(『週刊現代』1988年3月26日号)、他人から見ると、新人らしからぬ図太さも示していたようだ。