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 手帳の6月10日の欄に、私はこう書きつけた。《12:10、AFL576》。サベリエフは“悪夢の瞬間”を味わうことなく、同日正午過ぎのアエロフロート機でモスクワに向け日本を飛び立ったのだ。

 失望と落胆に暮れている暇はなかった。外事警察の次なるターゲット、サベリエフによってエージェントとして獲得、育成され、安全保障に直結する重要情報を漏洩した東芝系子会社の社員への刑事処分に向け、捜査は続いた。

 さらに、この年の8月の人事異動で瀬川警備局長は勇退した。自分にとってはいささか唐突な人事なように思えた。後任には、かつて外事課長、警備企画課長としてお仕えした小林武仁氏が着任した。

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 小林警備局長は、幾多の公安、外事事件を指揮してきた泰然自若とした人物で、いかなる情勢下でも、捜査には最善を尽くすようにと、常に背中を押してくれた。また、外事警察に理解が深い漆間巌警察庁長官も、私の報告を淡々と、しかし、十分な熱意で受け止めてくれていた。

プーチン来日直前に送検

 2005年11月21日、来日中のプーチン大統領は、小泉純一郎内閣総理大臣との首脳会談で、笑顔を見せていた。

 会談では、2003年に小泉総理とプーチン大統領が採択した「日露行動計画」に基づく協力の強化や、北方領土問題、戦略的対話の開始から拉致問題での協力まで9項目の確認・合意がなされた。特に、「実利主義」であるプーチン大統領に対する経済界の期待は大きく、経済貿易とエネルギー分野での協力は目を引くものがあった。

 当時の会談結果の概要を見ると、我が国のプーチン体制、“新生ロシア”への期待の大きさがうかがえる。

《両首脳は、日露間の貿易高が拡大している(今年100億ドルを突破する見込み。)ことを歓迎した。両首脳は、ロシアのWTO加盟に関する日露二国間交渉の妥結を確認した》

《両首脳は、太平洋パイプライン・プロジェクトを早期かつ完全に実現するための日露の協力について、来年のできるだけ早い時期までに政府間の合意を目指すことで一致した。今回、この内容を盛り込んだエネルギー協力に関する文書を、麻生外務大臣・二階経済産業大臣とフリステンコ産業エネルギー大臣との間で署名した》

 警視庁外事第一課は、2005年9月12日、東芝系子会社の社員を事情聴取。社員は、サベリエフの求めに応じて、会社の秘密情報を提供していたことを認めた。そして、10月20日、外事第一課は所属会社に損害を与えた背任事件を、被疑者サベリエフとして東京地検に書類送致した。

 それは、日露首脳会談でプーチン氏が来日するちょうど1カ月前のことだった。外交に与える影響を最小限にとどめつつ、一方で日本はスパイ活動を徹底的に監視し、許さないという我々の意思表示でもあった。

外事警察秘録

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北村 滋

文藝春秋

2023年12月6日 発売