ロシア・スパイの貪欲さ
この事件で、サベリエフが社員に支払った謝礼は総額100万円程度だった。さらに、サベリエフは社員が勤務する企業の社内ネットワークへの侵入方法にまで関心を示していた。
この情報が漏洩していたとしたら、当該企業がサイバー攻撃のターゲットになったことは疑いない。ロシア・スパイの貪欲な情報収集活動と、危険な本質に戦慄するばかりだった。
この事件で漏洩した情報は、パワー半導体に関する技術情報だった。技術流出にまつわる捜査では、被害状況を把握するため、当該漏洩情報に関する製品のスペック(性能や仕様)と技術そのものの有用性について、流出元企業に確認を行う。流出元企業は、管理責任の回避や刑罰減免のため、性能を低く説明することが多いが、この事件もその例に漏れなかった。
ロシア側に漏れたのは、電流を制御する半導体素子に関する情報。民生品に使われる技術で、流出元企業は「顧客に説明するための資料であり、軍事転用できるレベルではない」と主張した。しかし、実際には、潜水艦や戦闘機のレーダー、ミサイルの誘導システムへの転用が可能な「デュアルユース」との結論を得た。
日本の安全が、たかだか100万円程度で売り渡された。ロシアにとっては実に安い買い物だ。我が国は、また一つ、経済安全保障という血の流れない戦場で敗北を喫したのだ。
スパイ事件の捜査は、端緒の捕捉から監視、採証、着手に向けた検察、経済産業省など関係機関との連携など、いくつものハードルを完全秘匿裏に越えていく。繊細さにおいて気の遠くなる作業の先にやってくる最大のヤマ場は、スパイとそのエージェントとが相揃う接触現場で、任意同行を求める瞬間だ。
スパイの“悪夢の瞬間”
2000年9月7日、外事警察は、その時を迎えようとしていた。
東京・浜松町にある洋風居酒屋の一角で、海上自衛隊三等海佐と欧州人の間で情報と現金の封筒が取り交わされた瞬間、2人が歓談する席に影のように接近した捜査官が声をかけると、注文のやりとりや客同士の話し声が醸す混然一体の空気に満ちていた木曜夜の店内は一転。従業員や酔客に扮した警視庁公安部外事第一課と神奈川県警外事課の捜査員らは、たちどころに法執行官としての本質を顕わにして、被疑者の周囲を取り囲んだ。
欧州人の名は、ヴィクトル・ボガチョンコフ。在日ロシア大使館付海軍武官(大佐)をオフィシャル・カバーとしていたが、実際にはロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の機関員だ。彼は海上自衛隊三佐に対して、スパイ活動を行い、自衛隊の秘密指定文書等を入手していた。
ボガチョンコフは警察の職務質問の求めに黙秘。外交官身分証を提示して任意同行を拒否し、ロシア大使館差し回しの車でその場から立ち去ると、結局、2日後、空路帰国することになった。
エージェントとの接触現場を押さえられて警察に任意同行を求められ、マスコミのカメラの放列の前で世間に顔をさらしながら帰国するという結末は、スパイにとっては、いくら強がったところで“悪夢の瞬間”だろう。